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鳥海摩耶

鳥海摩耶

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非常口

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2012.11.21
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カテゴリ:HoI2AAR
 アイゼンハワーの演説が終了する前に、関係各国の軍は一斉に行動を開始した。今か今かと用意を整えていたのは、どちらも同じだったのだ。最初の戦闘はジブラルタル沖にて第6艦隊所属艦艇が追跡していたUボート艦隊の反撃によって生起した。一時的にせよジブラルタル海峡の封鎖を狙った機雷敷設のできる潜水艦が主力だったのだが、低速力のため逃げ切ることができず、あっと言う間に海底へ消えた。この海戦が、第2次世界大戦を凌ぐ過去最大の参戦国が戦うことになる第3次世界大戦の号砲となった。



 第2次世界大戦から第3次世界大戦までの戦間期、ジェット化の進んだ航空機と、それを海上で運用する航空母艦は最も進歩した兵器だった。航空機はレシプロ機は急速に陳腐化して行き、空母は重量がどんどん増して行くジェット艦載機を安全かつ迅速に運用する必要が出て来たため、蒸気カタパルトやアングルドデッキ(斜め飛行甲板)といった革新的な技術が生まれた。

 第2次世界大戦前後まで、ジェット機の開発競争で最も先んじていたのはルフトバッフェであり、RAFが続く情勢であった。両空軍のジェット機運用は第2次世界大戦中にまで遡る。ルフトバッフェにおいては、1939年にハインケル社のHe178が世界で初めてジェット機としての飛行を達成し、1944年末から本格的に運用が開始されたメッサーシュミット社のMe262がルフトバッフェの顔として君臨した。対するRAFでは1941年にグロスター社のE.28/39が初飛行し、Me262と同時期にグロスター・ミーティアを実戦配備した。ところが、最大速度870km/h余りのMe262に対して初期のミーティアは最大速度670km/h前後に過ぎず、世界初のジェット機同士の空戦ではMe262が一方的な勝利を収めた。その後しばらくはルフトバッフェが有利に空戦を進めるようになるも、性能が大幅に向上したミーティアの改良型が出現すると空戦は再び互角となった。

 しかし、第2次世界大戦の終結で様相は一変する。イギリス本土を占領したアメリカ軍はすぐさま新兵器に関係する機材や資料を次々に接収、自国での技術開発に活用した。ジェットエンジン自体はイギリスとの技術交流でもたらされたものの、アメリカでは運用実績がなくイギリスの先進的なジェット機関連の技術は非常に魅力的なものだったのだ。こうして、ジェット機先進国はドイツ及びアメリカへと変遷した。

 そんな中、史上初のジェット艦載機同士が戦う艦隊航空戦が勃発する。北海にて哨戒活動を行っていたアメリカ海軍第5艦隊の主力(空母24隻、戦艦8隻など)は、キールから出撃したドイツ艦隊の航空隊に奇襲攻撃を受けた。先手を打たれた第5艦隊はすぐさま直掩隊を発艦させつつ偵察隊を放った。だが、ドイツ艦隊を発見する前にドイツ側の攻撃隊が第5艦隊を捉えた。直掩隊を構成していたのはF-86Fセイバーを艦載機に改修したFJ-2、ドイツ側の攻撃隊を守るFw383(史実のMiG-15に類似)との間でジェット艦載機同士の航空戦が展開された。航空管制による支援を受け、錬度でも優っていたFJ-2隊はFw383隊と互角以上に渡り合ったものの、攻撃隊の全てを防ぐまでには至らなかった。この空戦で得られた戦訓からすでに試作段階に入っていた超音速機の開発が加速されることになるが、それはまた後の話であった。

 直掩隊を突破した攻撃隊は第58.3任務群と第58.4任務群を攻撃した。どちらも第2次世界大戦後生じた建艦競争で大量に建造されたミッドウェー級空母を中心としている部隊であった。盛んな対空砲火により撃墜される機体も相次いだが、投弾に成功した機体は少なくなかった。投弾されたのは、フリッツX(ルールシュタール/クラマーX-1)の後継に当たるルールシュタール/クラマーX-10、すなわち誘導爆弾であった。

 高高度から投下されたX-10は100発を超え、攻撃に晒された第58.3任務群や第58.4任務群の将兵たちは予期せぬ攻撃に狼狽した。この攻撃により、空母「ヴァレー・フォージ」が直撃を食らって飛行甲板を破壊され、発着艦ができなくなった。また、同じく空母「リプライザル」も火災発生により前線を離れざるを得なくなるなど、格下と見ていたドイツ海軍に先手を打たれた挙句に損害を被ったアメリカ海軍の精神的ダメージは大きかった。

 しかし、ドイツ海軍首脳が期待していたほどの戦果は挙げられなかった。後に明らかになることだが、X-10は敵艦からのレーダー波を受けて誘導される方式を取っていた。このため、多数の艦船がレーダー波を放っている場所では本来の性能を引き出せなかったのである。

 2隻の空母を前線から離脱させた第5艦隊は、態勢を立て直して反撃に移った。偵察機から10隻余りの空母を発見したという報告を受けた第5艦隊はただちに攻撃隊を発進させた。この頃アメリカ海軍の主力艦上攻撃機を務めていたのは、第2次世界大戦中に開発が始まったAD-1スカイレーダーであった。単発レシプロ機ながら多数のウェポンベイと大型爆撃機に迫る搭載量を誇る使い勝手のいい機体である。

 スカイレーダー隊はFJ-2隊の援護の下Fw383隊の防空網を突破、ドイツ艦隊に襲いかかった。第1次攻撃隊は護衛艦艇に攻撃を実施。ドイツ艦隊の各艦は対空砲火の射程外にて反転して行くスカイレーダーを見て当惑し、次いで雷跡を認めて回避行動に移った。しかし、その雷跡は回避行動を行う護衛艦艇の方へと「曲がった」。投下されたのは音響誘導魚雷Mk.35である。

 アメリカ海軍では日独の潜水艦との戦闘を想定して1943年から音響誘導魚雷を配備しており、その性能は戦間期に更に向上を遂げた。ドイツ海軍が潜水艦を数多く保有している海軍であることもさることながら、何よりも艦隊防空システムの飛躍的な発展があったためである。かつてのダーウィン沖での米英空母決戦の折に第3艦隊が示したような艦隊防空システムの発達は、急降下爆撃や雷撃といった従来の対艦攻撃手段が自殺行為になったことを意味していた。この時期はいまだ各海軍が代わりの対艦攻撃手段を模索している段階にあり、ドイツ海軍は誘導爆弾、アメリカ海軍は誘導魚雷を選んだのであった。Mk.35は高速力、長射程、命中率を求められた結果かなり大型化したが、スカイレーダーの搭載量はそれを補って余りあった。

 スカイレーダーの雷撃により重巡「プリンツ・オイゲン」や「アドミラル・ヒッパー」など重巡4隻を撃沈、ドイツ艦隊の混乱を誘った。そこへ、第2次攻撃隊が襲いかかった。第2次攻撃隊は防空網と護衛艦艇による対空砲火を突破して空母に殺到し、魚雷を投下して行った。ドイツ艦隊の空母は第2次世界大戦前に計画された「グラーフ・ツェッペリン」の流れを汲む重防御、重武装の空母であったがトップヘビーの感は否めず、水雷防御も不完全だったこともあって下腹部は脆弱であった。Mk.35は次々に目標に命中し、旗艦「ヘルマン・ゲーリング」など空母5隻が沈没、3隻が大破するという大損害を受け、ドイツ艦隊は這々の体でキールへと逃げ帰った。

 北海海戦と呼ばれる第3次世界大戦初の艦隊決戦はどう控えめに見ても第5艦隊の圧勝であり、ドイツ海軍の活動は出鼻から挫かれてキールやロストク、ケーニヒスベルクに篭ることになるが、後にアメリカ海空軍共同による航空攻撃によって、キールにて空母3隻、戦艦4隻を失うなど失態が続き、大西洋はおろか北海にすら出られない状況に陥ることになる。この段階に至って、アメリカ海軍や世論はドイツ海軍の「強さ」が過大評価であったことを知った。

 とは言えこの艦隊決戦は米独双方に大きな戦訓をもたらした。ドイツ海軍においては以前から指摘されていた火薬式カタパルトの能力不足やダメージコントロールの不備が実戦にてあからさまに悪影響を及ぼし、大敗を喫した。また、空母の重防御、重武装化が空母の搭載機数を減らしてしまい、アメリカ海軍の空母群と比較して数的劣位になってしまうことも問題視された。

 アメリカ海軍ではドイツ艦隊や攻撃隊の出撃を察知できず先手を打たれたことがクローズアップされ、戦術的、戦略的に早期警戒システムの強化が課題とされた。更に、ジェット機とレシプロ機の混在運用がどれだけ不便なのかをアメリカ海軍は思い知ることになる。ジェットエンジン搭載の艦上攻撃機の開発も進んでいたが、この海戦には間に合わず、巡航速度に2、3倍の差があるFJ-2、スカイレーダーという組み合わせによる艦載機隊になってしまったのだった。このためスカイレーダー隊を出撃させてFJ-2隊を時間差で投入するなど運用上非常に不便だということが明確になった。

 そして、米独双方の得た最大の戦訓は、対艦攻撃手段の不充分さである。ドイツ海軍の誘導爆弾は誘導方式のまずさもあって命中率が期待されたよりも悪く、特に高速で回避行動を取る艦艇に対してはX-10の性能では不充分だったことが明らかとなった。アメリカ海軍の誘導魚雷については、主力のMk.35音響誘導魚雷は大型で高威力を発揮したが、小型艦艇に対してはついに命中弾を得られなかった。また、射程の問題から敵艦に接近せざるを得ない場面も多く、特に第2次攻撃隊には第1次攻撃隊が捕り逃した護衛艦艇の対空砲火で失われた機体も少なくなかった。結果、双方が従来の対艦攻撃手段を放棄し、対艦ミサイルという新しいジャンルの兵器の開発、配備に繋がることになる。



 米伊軍が睨み合っているリビアでは、開戦直後から本格的な戦闘が始まった。双方合わせて300個師団というハイスタック同士が刃を交わしたこの戦場において、先にしかけたのはアメリカ軍であった。アメリカ軍の一大駐屯地だったスルトから機甲軍団が真っ先に飛び出し、比較的イタリア軍の兵力が少なかったカッダヒーヤを占領。ミスラータまで進出して来たイタリア軍を横目に、アメリカ陸軍の大陸派遣軍の機甲軍団はカッダヒーヤからヴィシーフランス領チュニジアとの国境まで西進し、トリポリのイタリア軍本陣への包囲網を狭めて行った。後詰めとして出撃した部隊もミスラータにおける戦闘でイタリア軍を退け、イタリア軍はトリポリと地中海沿岸都市の1つズワーラに閉じ込められた。

 イタリア軍は何度か救出作戦を試みたものの、制海空権を連合軍に奪われた状況では成功を望みようがなかった。6月3日、ズワーラに突如としてアメリカ空軍の大編隊が来襲した。大編隊から吐き出されたものはイタリア軍守備隊の予想とは異なる多数の空挺兵であり、ズワーラ上空に飛来したのは米空軍の戦術輸送機C-123プロバイダーだった。アメリカ大陸派遣軍は、ズワーラ攻略の切り札として空挺軍団を投入したのである。投入されたのはアメリカ軍が保有する全ての空挺30個師団であり、総兵力30万、参加した輸送機約5000機という史上最大の空挺作戦は成功を収め、後にアメリカ軍がヨーロッパ戦線にて実施する大規模空挺作戦の叩き台となった。

 こうして完全にトリポリで閉じ込められたイタリア軍に対し、アメリカ陸軍大陸派遣軍は降伏勧告をイタリア軍司令部に送ったが、イタリア軍司令部はこれを拒絶。最後まで戦う意志を示し、6月18日の総攻撃が実行に移された。補給の途切れていたイタリア軍の反撃は序盤こそ目を見張るものがあったが、弾薬の不足して来た中盤以降ではアメリカ軍が圧倒。その日の内に決着が着いた。結果、イタリア軍は5万の兵士を失い、50万名にも上る膨大な捕虜が発生することになる。

 トリポリの陥落で、スエズ運河を挟んだ小競り合い以外ではアフリカ大陸における連合軍と枢軸軍の戦闘は収束した。アメリカ政府はリビアの解放と独立を宣言し、ムッソリーニは歯軋りして悔しがったという。


続く。

HoI2集

アメリカAAR





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最終更新日  2012.11.21 09:54:30
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