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鳥海摩耶

鳥海摩耶

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非常口

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2012.11.24
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カテゴリ:HoI2AAR
 この時期、アメリカ陸軍の機甲戦力の主力となったのはM60パットンであった。M60は第2次世界大戦に投入されたM26パーシングをルーツに持つ戦後の第2世代戦車であり、主砲はイギリスのロイヤル・オードナンスで開発されたL7 105mm砲を搭載していた。連合軍全体でも広く使われたこの戦車は、アメリカ陸軍戦車で初めてディーゼルエンジンを搭載し、車内容積にも余裕があるため改装が容易な汎用性の高い傑作戦車と言えるものであり、第3次世界大戦だけではなく大戦後も使われ続けることになる。

 一方で、ドイツ国防陸軍以下枢軸軍で使用されていた主力戦車(MBT)は同じく戦後第2世代のレオパルド1であった。ドイツ国防陸軍における戦車開発は、一時超重戦車に重点が置かれて迷走した。連合軍の兵士たちの間では「ヒトラーが『大きい兵器が好きだ』と言って開発を指示した結果、どんどんヒートアップして行った」という笑い話が広がったが、実際には「連合軍が100t級戦車の開発を計画している」とのアメリカ陸軍が流したブラフに引っかかった結果であり、どちらにせよ後世の人間にとっては笑い話の域を出ない話だった。しかし、当人たちは大真面目に開発を進め、ドイツ国防陸軍はE-100とマウスという2つの超重戦車の開発を成功させたのである。このため、アメリカ陸軍内では「自分たちも100t級戦車をつくった方がいいのではないか」という声まで生まれ、リッジウェイと元陸軍軍人であるマーシャルが超重戦車の開発配備を真剣に議論したというエピソードも残っている。

 しかしながら、予想された通り超重戦車は製造にも運用にも高いコストがつきまとった。特に広大な直轄地を持つドイツ第三帝国は重過ぎる超重戦車を使いこなせなかったのである。更に情報の解析が進むに連れ、アメリカ陸軍が超重戦車をつくる意志はないと判断されるや、E-100とマウスの生産は早々に打ち切られることになった。次にドイツ国防陸軍が重点を置いたのは、5号戦車パンター及びE-50の後継車種開発であった。パンターやE-50は同世代の戦車の中でもバランスの取れた優秀な戦車であり、戦間期のドイツ国防陸軍の主力を成していた。

 だが、戦車戦における不利を自覚していたアメリカ陸軍が相次いでM46~60に至るパットンシリーズを前線に投入するや、E-50の改良型であるE-50A2でも地形を上手く利用したり待ち伏せしたりしなければ勝てないとさえ言われるようになっていた。そこで、新開発のラインメタル社製長砲身105mm砲を搭載し、従来の中戦車という枠組みを発展させたMBTのコンセプトを初めて取り入れる新型戦車の開発が進められたのである。開発はポルシェ社が中心となった企業連合が担当し、第3次世界大戦開戦前には開発に成功した。M60と同等、状況次第では上回る性能を持った新型戦車はレオパルドと名付けられ(1は後に開発されたレオパルド2と分類するために後からつけられた)、早速実戦配備された。開戦後、イタリア戦線には間に合わなかったものの、このマーケット・ガーデン作戦の発動によって生起した実戦において、初めて米独の誇るMBT同士の戦いが実現することになる。

 事前の充分な砲爆撃で作戦開始後早期にセーヌ川の対岸に橋頭堡を次々に確保して行った第2大陸派遣軍は、すぐさまM60を渡河させて前進した。突破を担当したのは歴戦の第2機甲軍団である。投入されたM60は強力な突破力を見せつけ、アメリカ空軍の阻止攻撃による枢軸軍内での連携の乱れもあって戦線は作戦開始初日にパリから60km北東へ移動した。第2機甲軍団の進撃に対する戦闘において枢軸軍は対戦車ミサイルを使用したが、目視による照準だったため命中率は低く、結局期待された戦果を挙げられなかった。

 第2機甲軍団は次いで北進し、アミアンの南東50kmの地点まで進撃した。この急進撃に対して第19軍は側面から反撃することを決定し、コンピエーニュに温存されていた第2SS装甲軍団の投入が決まった。折しも悪天候が重なってアメリカ軍得意の航空支援が使えず、地方都市モンディディエ郊外にて第2機甲軍団が迎え撃つことになり、両軍合わせて1000両以上の戦車が入り乱れる第3次世界大戦史上に残る戦車戦が勃発した。

 モンディディエ戦車戦は純粋な殴り合いになり、戦闘開始序盤から消耗戦の様相を呈した。地の利を得ていた枢軸軍は地形を利用しつつレオパルドが持つ高い機動力を活かしながら戦ってM60隊を翻弄したが、第2機甲軍団が対戦車砲を大量に持ち込んだため徐々に追い詰められ、レオパルドの有利な点である機動力を活かせなくなって行った。

 戦闘開始から3日、両軍合わせ300両の戦車が破壊され、司令部の計画を大きく狂わせた。双方が相手の追撃を警戒しながら撤退する中、彼らの頭上では天候が回復して出撃できるようになった航空部隊が航空戦を繰り広げ、こちらも泥沼化した。特に双方の近接航空支援部隊は敵戦闘機の襲撃と歩兵の地対空ミサイルによって大打撃を受け、両者の近接航空支援を主任務とする航空機の開発を促進するが、それはまた後の出来事である。

 このモンディディエ戦の結果、両軍ともに大損害を受けて第2機甲軍団、第2SS装甲軍団は前線を離れることになった。しかし、その後の対応は連合軍の方が早かった。第2大陸派遣軍司令部は即座に予備として温存していた第1機甲軍団を前線に送り込んで第2機甲軍団と交代させ、攻勢を再開した。一方でヒトラーや第19軍司令部は「第2大陸派遣軍は第2機甲軍団の撤退をもって攻勢を諦めた」と判断してしまい、気づいた時には第1機甲軍団の侵入を許すことになる。

 アミアンは2月7日に陥落。航空基地や補給基地のあったリールも2月10日までには陥落し、11日のガーデン作戦を迎える。ガーデン作戦は海軍の手厚い援護の下実行に移され、15日には西フランドル一帯がアメリカ軍の勢力下に落ちた。ここに、パ・ド・カレーにおいて大包囲が完成する。このポケットには60個師団以上という無視できない数の枢軸軍が閉じ込められ、外側の枢軸軍も何度か救出作戦を実施したものの、第2大陸派遣軍の反撃の前に損害を積み上げるだけであった。

 2月19日、かつてイギリス軍が歴史的な撤退作戦を決行したダンケルクにおいて最後の殲滅戦が行われた。追い詰められた枢軸軍62個師団に対し、第2大陸派遣軍は117個師団による攻勢及びアメリカ海軍第5艦隊、アメリカ空軍第3空軍の投入による航空支援という総攻撃で応え、3日に及ぶ枢軸軍の抵抗の末、ダンケルクの戦いは終結した。

 以上のように、賭けのように思われたマーケット・ガーデン作戦はリッジウェイやアイゼンハワー、作戦に立てた第2大陸派遣軍司令部の予想を大きく上回る戦果を挙げ、枢軸軍の抵抗もベネルクス方面では弱まった。しかし、機甲戦力をベネルクスでの攻勢に引き抜かれたため南部のアンデルヌ、ブルゴーニュ方面では苦戦が続き、第2大陸派遣軍がフランス北部全域を「解放」したのは春になってからのことであった。

ss1251.jpg



 第2大陸派遣軍は春になって雪が溶けると、新たな攻勢作戦を立案した。すでに目の前に横たわっているドイツ本国に侵入、ライン川を渡河してドイツ西部の工業地帯を押さえ、ドイツ第三帝国に対し戦略的ダメージを与える作戦はヴァーシティー作戦と名付けられ、4月20日より開始された。独仏国境には第2次世界大戦前から建設されていたジークフリード線という要塞線が存在し、戦間期にかけて大きく強化されていたが、第2大陸派遣軍は圧倒的な物量をもって強行突破。作戦開始翌日には重要都市ケルンが陥落し、ドイツ第三帝国本国に侵入した。

 5月に入ると第2大陸派遣軍の主力が次々にライン川を渡河し、デュッセルドルフ、エッセン、ドルトムント、アーヘンといった名立たるドイツ第三帝国の都市がアメリカ軍の占領下に置かれて行った。6月初頭にはリューベックが陥落し、ユトランド半島とキール、ハンブルクといった北部の都市が孤立した。6月中にはそれらの都市やデンマーク方面の枢軸軍の掃討も終わり、ベネルクス3国やデンマークは再独立を果たした。

 ここで第2大陸派遣軍は兵力を分散させて進軍した。目標はそれぞれベルリン及びミュンヘンである。ベルリンに向かった部隊は機甲戦力を集中投入されたこともあって順調に進撃したが、ミュンヘン向かった部隊は与えられた兵力に比べ担当地域が広大であったため進撃が遅れた。もっとも、この地域における枢軸軍の果敢な抵抗は、ドイツ第三帝国中部における大包囲に一役買うことになる。

 ドイツ国防陸軍のベルリン防衛軍は、ベルリン郊外のポツダム近郊にて第2大陸派遣軍を迎撃したが、10対1の戦力差はいかんともしがたく、瞬く間にベルリン近郊へと押し込まれた。ベルリンの東方には歴戦のドイツ国防陸軍A軍集団が控えていたが、第2大陸派遣軍との消耗戦に引き込まれ、やむなくオーデル川東岸へ撤退した。包囲下に置かれたベルリンにおいて、ヒトラーは最後の演説を行った。

1955年7月18日 ドイツ第三帝国 ベルリン 総統府

アドルフ・ヒトラー.jpg
「・・・残念ではあるが、精強なる我国防軍は敗れ、ベルリンは包囲された。
 だが、絶対に諦めてはならない。国防軍の兵士たちは反抗の意志を失っていない。
 祖国を蹂躙されたこの屈辱、必ずや晴らしてくれよう。
 私はここ、ベルリンでベルリン防衛軍とベルリン市民たちとともに最後まで戦う。
 そのため、私はベルリン防衛軍最高司令官に就任し、総統の職を辞する。
 後任にはカール・デーニッツ海軍元帥が就任する。彼の指導の下、諸君も最後まで戦ってもらいたい。
 悪しき帝国主義者どもを、この偉大なドイツ第三帝国から追い出して欲しい!」

 ベルリンへの総攻撃が始まったのは翌日のことであった。



 7月19日の明朝、第2大陸派遣軍の包囲下に置かれたベルリン上空に大量の輸送機が姿を見せた。イタリア、フランス北部で見られた大規模空挺作戦が、ここでも実施されたのである。砲爆撃により破壊された跡の目立つベルリン市街に20万の空挺兵と同時期に突入した第2大陸派遣軍の一部部隊の活躍により、ベルリン市街は司令部の予想よりも早く制圧された。

ss1253.jpg

 ヒトラーは19日中に総統府の地下防空壕で自決、後任は元海軍軍人であるカール・デーニッツが就任。ワルシャワにて新政権の成立を宣言した。これに伴い旧政権で大きな権力を手にしていた大元帥ヘルマン・W・ゲーリング、ホロコーストの指導者として名を知られていたハインリヒ・L・ヒムラーらが失脚。戦争は継続するものの、デーニッツ政権がかつての大日本帝国東京暫定政府のような降伏準備政権としての役割を担っていることは誰の目にも明らかであり、ベルリンの陥落は第3次世界大戦最終幕の開演の知らせと世界中で受け止められた。すなわち、第3次世界大戦は終わったも同然だという声が高まり、米独の和平交渉を期待するメディア報道が相次いだ。

 ところが、ワルシャワのデーニッツ政権はあくまで徹底抗戦を麾下の軍、親衛隊、同盟国に対し呼びかけた。軍の指揮官は例外なく祖国に殉じることを選び、アメリカ軍が期待したような部隊の降伏は全く見られなかった。かくして、第3次世界大戦は継続される。


続く。

HoI2集

アメリカAAR






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最終更新日  2012.11.24 10:11:01
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