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鳥海摩耶

鳥海摩耶

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2012.11.25
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カテゴリ:HoI2AAR
 第2大陸派遣軍はベルリン占領後、アテネを戦略的目標に置いて南進した。8月25日、ドイツ第三帝国本国全域がアメリカ軍の占領下となり、アルプス方面にて第1大陸派遣軍と第2大陸派遣軍の一部部隊が固い握手をかわした。米独、そして連合国と枢軸国の全面衝突開始から1年と3ヶ月目のことである。

 山岳地帯を避けた機甲軍団は、チェコ、スロバキア、ハンガリーを次々に占領して行った。イタリア戦線で第1大陸派遣軍と睨み合う枢軸軍の大軍の様子を窺いながら慎重に兵を進め、枢軸国で初の脱落国となったスロバキアが併合されたのは10月6日になったが、それをきっかけに南欧での戦いはスピードを増して行く。

 10月13日、第1大陸派遣軍と第2大陸派遣軍の合同作戦により長らく停滞していたイタリア戦線が動きを見せ、枢軸軍は包囲を避けながらユーゴスラビアへ敗走した。10月18日にはドイツ第三帝国の属国であったクロアチアが併合される。ユーゴスラビア以南での戦いは山岳地帯と河川の多さから連合軍の進軍速度は遅くなったが、逆に言えば南欧における枢軸軍の抵抗は地形や気候よりも連合軍にとって邪魔ではなくなっていたのである。

 1955年が終わるまでにアメリカ軍はアテネに到達、占領した。これをもってアメリカ合衆国はイタリア王国の併合を宣言、枢軸国は地中海の拠点をまた1つ失った。かつて一斉蜂起を起こしたギリシャ国民はアメリカ軍を解放軍と熱烈な歓迎をもって迎え入れた。ギリシャが独立を取り戻すのは翌年1月9日のことである。

 ギリシャ解放をもって、大陸派遣軍は北進に転じた。山岳地帯の続くブルガリアを踏み潰し、重要な戦略的拠点であり東欧最大のプロエシュティ油田を抱えるルーマニアを下せば、アメリカ軍の目の前には広大なロシアの大地が広がっていた。

 1956年の3月になると、アメリカ軍大陸派遣軍はドイツ第三帝国領ポーランド及びウクライナに侵入。ポーランドではワルシャワにドイツ第三帝国の亡命政府があったが、アメリカ軍の攻勢が始まるやいなや彼らはモスクワまで撤退する。ポーランドには枢軸軍200個師団余りが展開して第2大陸派遣軍と睨み合っていたが、すでに物資や燃料が不足し、烏合の衆になり下がっていた。彼らはアメリカ軍の攻勢の前に敗退を重ね、第2次世界大戦の始まりの地ダンツィヒに立て篭もった。しかし、人間の盾を使ってまで抵抗した枢軸軍は同地の人々からも見放され、ダンツィヒで始まった最後の戦闘は短時間で決着。枢軸軍はポーランド戦にて20万名の戦死者と100万名に及ぶ捕虜を出し、同軍全体の士気は著しく低下した。

 その後は、ドイツ第三帝国という名の全体主義の残骸との戦いだった。ポーランド、ウクライナ、バルト3国、ロシアが続々と「解放」されてナチスの影響圏から取り除かれ、7月18日にはフィンランドがアメリカ軍の軍門に下り、ついにドイツ第三帝国に付き従う国家はもうどこにも存在しなかった。全盛期にはヨーロッパ全域を勢力圏下に収めんとしていたかつての1大勢力は、もはやロシアと中東の一部しか領有していない弱小勢力に成り果てたのである。

 北欧での戦いはレニングラード包囲戦によってグランドフィナーレを迎え、同地で15万のドイツ兵が死んだ。アメリカ軍はその後東進してシベリアにてアジア諸同盟国軍と合流を果たす部隊も現れた。そんな中の8月20日、アメリカ軍占領下のベルリンではドイツ連邦共和国の独立式典が盛大に執り行われる。ドイツ連邦共和国政府は自らをドイツにおける唯一の「正当な政府」と宣言し、ドイツ第三帝国のデーニッツ政権を全否定した。デーニッツ政権は旧イラク領バグダッドで新政府を認めない旨の声明を発表したが、事ここに至って彼らの言うことを認めようなどという酔狂な人々はごくわずかであった。そしてドイツ連邦共和国の存在はドイツ第三帝国、すなわちナチス政権の正当性を奪い、和平交渉の窓口すら閉じられてしまったことを意味する。ナチス政権と枢軸軍は、勝敗のあらかた決まった絶望的な戦いから逃れる術を失ってしまったのであった。



 8月30日、中東のテルアビブにアメリカ軍海兵隊が上陸。スエズ運河で連合軍と対峙していた枢軸軍を挟撃して撃破、中東の解放の鐘が鳴った。アメリカ合衆国政府はこの地にユダヤ人、シオニストたちの国家を造り上げた。イスラエルと名付けられた新国家は、中東に輝く星を掲げる国家となり、この地に新たな火種を呼び込むことになるが、その問題が表面化するのは数年後の話である。

 インフラがなく、砂漠が広がる中東戦線では開戦以来ドイツ第三帝国と大日本帝国が激戦を繰り広げていた土地であった。しかし、拮抗していたパワーバランスもすでに失われ、連合軍は枢軸軍を次々に打ち破って追い詰めて行った。

 戦争が最終段階に至る中、アメリカ合衆国では4年に1度の1大政治イベント、大統領選が行われる。自分たちからしかけた第3次世界大戦に圧倒的な勝利をもたらそうとしていたアイゼンハワーは苦もなく再選を果たし、任期は2期目に移った。アメリカ合衆国の権威はここにきて建国史上最大のモノになりつつあり、それを結実させたアイゼンハワーが自国民から支持されない道理がなかった。

 この時中東戦線ではシリア砂漠、カフカス山脈、カヴィール砂漠の三方からアメリカ軍が迫り、拠点の1つアバダンも大日本帝国軍が郊外に到達しており、ナチス政権の要人はバグダッドにて徹底抗戦を叫ぶだけであった。11月20日、バグダッド陥落。敗走するドイツ国防軍とともにデーニッツらもバグダッドを脱出したが、逃げる場所はどこにも残されていなかった。

 11月25日、旧イラク・ペルシャ国境付近でアメリカ軍部隊が不審な一団を捕らえた。第1大陸派遣軍を構成する軍団の1つ、第11軍団所属の第11歩兵大隊の大隊長は、不審な一団の内の1人をドイツ第三帝国の指導者カール・デーニッツと確信。訊問したところ、当人もその事実を認めたためすぐさま空路でベルリンへ護送され、その事件はマスメディアを通じて世界中の人々が知るところとなった。

 トップで報じたハンブルク・ラジオは、重要な知らせの予告としてワーグナーの「神々の黄昏」の一部を流した。更にその数分後、「これからすぐに、非常に重要なメッセージが放送されます」とアナウンサーが言い、ワーグナーの死を悼んでブルックナーが作曲した交響曲第7番のゆっくりとした調べを流した後、ドイツ国民と世界に「デーニッツ拘束」のビッグ・ニュースを報じた。

 この事件に続く形で、12月16日、アバダンに追い詰められたドイツ国防陸軍41個師団30万名の兵士たちに連合軍から降伏勧告が出されたが、指揮官たる老将ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル陸軍元帥はこれを拒否。数時間後に連合軍の総攻撃が始まった。物資こそ不足していたが、直前まで確保されていた油田のおかげで燃料は足りていたドイツ国防陸軍は最後の抵抗を見せ、アバダンでの戦闘は3日に及んだ。カイテル以下首脳陣は自ら前線に飛び出して行き戦死。ドイツ国防陸軍の戦死者は最終的に18万名に上り、残りの12万名も相次いで降伏した。

 一方で、ロシアでも包囲されていた部隊がデーニッツ拘束、アバダン陥落の報告を受けて武装解除の勧告を聞き入れ、12月26日に武装解除が終了した。アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはカメラの前に立ち、高らかにドイツ第三帝国の終焉を宣言し、第3次世界大戦の終結を世界中に発信した。

ss1256.jpg

 翌年になり、アイゼンハワーは戦時中から提案していたロンドンに戦後処理のため連合国の首脳が集まる一大国際会議を開催した。1957年1月15日、アイゼンハワーはホワイトハウスを発った。



1957年1月15日 ワシントンD.C. ホワイトハウス

マシュー・B・リッジウェイ.jpg
「大統領。専用機の用意が整いました。出発しましょう」

ドワイト・D・アイゼンハワー2.jpg
「うむ、ありがとう」

リチャード・M・ニクソン.jpg
「お気をつけて、大統領」

ドワイト・D・アイゼンハワー2.jpg
「ああ。ホワイトハウスとアメリカ合衆国のことをしばらく頼む」

リチャード・M・ニクソン.jpg
「今まで通り、全力を尽くします」

ドワイト・D・アイゼンハワー2.jpg
「そうか。・・・ああ、国防長官。少しですむから副大統領と2人にしてくれないか?」

マシュー・B・リッジウェイ.jpg
「? ・・・かしこまりました」

リチャード・M・ニクソン.jpg
「大統領?」

ドワイト・D・アイゼンハワー2.jpg
「何、確認したいことがあっただけだ」


続く。

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最終更新日  2013.02.22 22:13:56
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