摩耶の旅 第10回「フランスの黒」 1955
1955年日本の命運は、アメリカに屈していないとは言え、すでに沖縄、海軍戦力を失い、風前の灯火であった。フランス軍幹部が「腐ったトイレのドア」と呼んだ程に、状況は悪いとされていた。特に制海権の損失に伴い、国内への物資搬入が滞ってからは国民生活も困窮し、先は見えなかった。そしてそれは、属国下の中国や満州でも同じ事であった。枢軸同盟はその状況で介入し、日本勢力の取り込みを目指したのである。1955年4月8日。枢軸同盟加盟国は一斉に宣戦布告通知を日本政府に対し叩きつけた。ただちに戦闘が開始されるかと思われたが、前線では静かな時が流れるだけで一発の銃声も聞こえなかった。しかしそれは、2日後に起こった地獄の幕が開く序章に過ぎなかったのである。*1955年4月10日 08:00(現地時間16:00) 台湾 カオシュン台湾でも指折りの都市の1つであるカオシュンは、食料不足と治安悪化により常に緊張感を孕んだ空気を醸し出していた。自前の商店を持ったはいいが、1950年頃を契機に品不足が続き、ついに「何でも屋」へと看板を替えた入植人の後原泰介は、半ばゴーストタウンの様相を呈していたカオシュン市内を巡り、品物と顧客の獲得に精を出しているところであった。「何かご入り用のものはありませんか?」「欲しいものでしたら粗方揃えられます」品不足のおかげもあってか、何とか家族を食べさせていけるだけの収入はあった。だが、そのほとんどは高騰する食料に消え、夢である商店を再開させる事など思いもよらなかった。一昨日に枢軸同盟が対日宣戦をしたというニュースが広がったが、ハイパーインフレのもたらしたその日暮らしは、後原の関心を上回って余りあった。(戦争なんて軍人のやる事、俺には関係ない・・・)日に日に先鋭化して行く本土の空気を嫌い、台湾へと渡って所帯を持った後原にとって、戦争はまだまだ遠い世界の話であった。例え、自らが旅立った土地が焼け野原になっていたとしても。カオシュンの中心街へ出ると、かつての活気が完全に失われた通りが続く。開戦直後から行われた新開発により、カオシュン市内には1~10の名前を冠した路が整備され、一時はかなりの盛況ぶりを見せた。しかし今では闇市が乱立し、治安も悪化してまともな人間は歩いていない。その意味では、後原はもはやまともな人間ではなかった。ただそこには、食べる事と生きる事が同化した餓鬼が1人、いるだけだったのかもしれない。いつもの通り人相の悪い台湾人のお得意様に声をかけ、新たな顧客を探そうと周りに目をやる。ふと、何かが光った気がして後原は空を見上げた。カオシュンの晴天に、尾を引きながら飛んでいる「何か」がそこにはあった。(まさか、流れ星・・・?)違う、と後原は馬鹿げた考えを打ち消した。まだ空は明るい。そんな時にどうして流れ星が見えるというのか。ではあれは一体何なんだ、と続けて考えようとして、唐突に「それ」は訪れた。*フランスの首都、パリ郊外にあるフランス軍総司令部直轄基地から発射された水素爆弾搭載のICBMはカオシュン上空に達した。入力されたコースからはわずかに逸れていたが、もたらされる効果からすれば許容誤差の範囲内であった。「神の矢尻」とその存在を知る者たちからあだ名されたICBMは、一度大気圏外に出た後、引力と惰性によって大気圏へと再突入し、カオシュン上空でそのエネルギーを解き放った。この時代、アメリカ合衆国は核兵器の開発に手をつけていなかった。ルーズベルトが敗れて以降、元々少ない軍事予算がさらに削られたためである。レオ・シラードらがランドン新大統領に親書を送り、「核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性がある」と指摘したが、ランドンの関心を引くものではなく、核兵器は忘れ去られた存在となった。そのため密かに原爆開発を行っていたフランスにかなりの数の科学者が、亡命同然で流れ込む事になり、フランスの核開発は加速したのであった。生じた火球はさながら小太陽とでも言うべきものだった。その火球をまともに肉眼で捉えた後原は一瞬の内に視力を奪われたが、彼は後に起こる地獄を見ないですんだだけ幸せだったかもしれない。もっとも、苦痛にのたうち回るよりも前に後原の身体は周囲の建物、人間と一緒になってその熱量により溶かされてしまうのであったが。カオシュン市内の北部には日本海軍の基地があり、郊外には守備隊も駐屯していた。しかし、そんなものでこの惨劇を止める事は出来なかった。爆発した瞬間、熱線がカオシュン市ほぼ全域を包み、軍人も市民も一緒くたに炭となり、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発による高熱で発生した上昇気流に吹き上げられた粉塵が上空で拡散し、特徴的なキノコ雲を現出した。*「なんだ、これは・・・」カオシュンの沖合、高度5000mにいたエタンダール4 P偵察機長のアンリ・トレルイエ大尉は思わず呟いた。空母「フィリップ・ペタン」の偵察機隊隊長として「新型兵器の威力検証」という任務を仰せつかった時、任務を伝えたフランス国防省の幹部には「君の名は歴史に残るだろう」と言われ、軍人としてその高揚感に奮い立たされたが、不気味なキノコ雲の前にその高揚感は四散した。サングラスをかけさせられ、その新兵器が炸裂した瞬間を絶対に見ないようにと釘を刺されていた事もあって目を逸らしていたが、生まれた強い光を直接見るなど思いもよらなかった。「これが新兵器かよ・・・」操縦席に座る相棒のポール・フレネ少尉は呆然といった風情で呟き、トレルイエは我に返った。そして同時に、自らが授かった任務を思い出した。「何をしている。ぎりぎりまで寄せろ」「・・・は」マイクを通じた会話が余所余所しい。フレネが操縦桿をわずかに倒すと、機体も緩やかな旋回に入った。トレルイエは夢中でツァイス・イコン社製カメラのシャッターを切った。機載のガンカメラで映像記録もしているが、目の前の光景を収めるには自らが携えたカメラで撮影した方がいいような気がしたのだ。(歴史に残るのは分かる気がするが・・・)彼は言い知れぬ不安を感じていた。彼は枢共戦争時から従軍している歴戦のパイロットの1人であり、経験も豊富であると自負していた。だが、今目の前に広がる光景は、その経験が導き出す結論すら無に帰してしまう様な禍々しさを感じていたのである。(とても遠いところに来てしまったな、兵器というやつも)現実離れした光景に珍しく感傷的になってしまったその時、機体が激しく震動した。「衝撃波!」「受け流せるか?」「やってみます!」フレネが操縦桿を倒し、いまだ立ち上るキノコ雲へと機首を向けた。衝撃波に対する面積を少しでも減らそうというのだろう。やがて衝撃波が通り過ぎ、震動も収まった。セキュリティシステムを確認し、機体に大した損害がない事を確かめ、トレルイエは胸をなで下ろした。(しかし、こんなところまで衝撃波が来るとは・・・何という破壊力だ)「機長・・・」フレネが不意に声を上げた。「どうした?」「雲が晴れます。下を見て下さい」言われた通り、トレルイエは眼下に目を凝らした。フレネの言う通り、カオシュンから粉塵がわずかに晴れていた。砂州で覆われた潟はカオシュンを象徴する良港だという話だったが、そこにあったのは先程までのものとは完全に異なっていた。街がまるごと消炭になっていた。ところどころで火の手が上がり、黒い画用紙に赤いペンキを垂らした様な絵が出来上がっていたのである。そこに、ヒトが住んでいたとはとても思えなかった。知らず知らず生唾を飲んだトレルイエは、再びシャッターを押した。そこに、彼の知る「戦争」は存在しなかった。彼は自分の知る「戦争」が、自分を置いて遠くへ行ってしまったような気がして心細い心地になった。そう思う程、撮らなければという強迫観念が彼を強く動かしたのだった。この任務終了後、彼の撮影した写真と映像は世界に公表され、彼の名はその写真と共に有名になって行ったが、彼は一切のインタービューに応じる事なく生涯を終えるのである。1955年4月10日、史上初の核攻撃が実施され、カオシュンという街は死んだ。*軍事的な抵抗力を損失したカオシュンに対し、フランス陸海空軍は共同で強襲上陸作戦を展開。空母16隻、戦艦4隻、航空機1,000機等の支援の下、新編成されたフランス海兵隊10万が上陸した。海兵隊員は即座に日本軍の拠点であった場所を占領し、簡易的な基地とした。海兵隊員たちが上陸後最も悩まされたのが放射能汚染であった。放射能汚染はフランス軍首脳陣や科学者の予想を上回り、フランス軍はカオシュンを最低限の兵力だけを残して放棄、火災の鎮火や被爆者の治療に注力する事になるが、それは対日戦が終結してから本格化する事になる。4月中に台湾全土を制圧したフランス軍は、台湾をアジア戦線の拠点として活用し始めた。5月1日、フランス海兵隊が朝鮮半島のプサンに上陸。フランス軍が加わり、インドシナ、ビルマ、インドといったアジアにまで展開する枢軸同盟が全力をもって中国大陸制圧に乗り出したのである。7月に入り、フランス軍は朝鮮半島全域を占領し、間を置かず満州に侵攻を開始した。満州はアムール川沿いに防衛線を張るので精一杯であり、新たに発生した朝鮮という戦線に対応出来なかった。首都である新京、工業都市ハルビンは早々に陥落し、満州と旧ソ連国境沿いに追い詰められた日本、満州軍は次々に降伏、全滅して行った。8月15日には満州の全ての重要拠点を押さえたフランスは満州の併合を宣言した。フランス軍は中国国民党との国境沿いに主力を駐屯させると、満州、モンゴルの敵兵力掃討と徳王政権下の蒙古連合自治政府解体に乗り出す一方で、兵力の回復に努めた。土台、時間をかけて困るのはあくまで日本勢であり、枢軸同盟にとってはいかに損耗を抑えるか、言ってしまえば勝って当たり前の戦争なのであった。続く