カテゴリ:■ ご先祖様の、日本史探訪。
■ 埼玉県名所巡り-彩情景 「鉢形城公園」 / Tour attractions in Saitama Prefecture. "Hachigata Castle Park" ■ 日本100名城巡り77 №18鉢形城 2014/08/01 埼玉県の「秩父」に、「武蔵鉢形城(むさし、はちがたじょう)」と言う、城跡が、存在する。 「武蔵鉢形城」は、日本100名城の一つで、室町時代に、長尾景春によって、築城されたものである。 戦国時代には、小田原の、後北条氏の、支配下にあったが、主に、甲斐の武田と、対峙していた様だ。 そこに、私の、「父方の、祖父」の、先祖の方々が、数多くが居た。 (ちなみに、「父方の、祖母」は、水戸藩の、御殿医の系統らしい。) 彼らは、日本最古の武士団、「武蔵七党」の「児玉党」や、新田源氏の、子孫だと思われる。 彼らは、少なくとも、1000年以上前に、その地に定住し、 その後、豊臣政権下の、徳川家康の、支配下になり、 江戸時代になると、そのまま、徳川将軍の、直轄領の住人となって行った。 そして、今でも、私の、親戚筋に、その子孫たちがいるのである。 はたして、彼らは、自分たちのルーツを、知っているのであろうか。 大島、新田、木村、児玉、浅見、関根、逸見、大沢、岩田、島田、加藤・・・。 後に、彼らの子孫が、明治の、「秩父事件」に関わって行く事になるが、はじめに、江戸時代の、先祖の事について、述べて行こうと思う。 (1)江戸時代、秩父、奥多摩は、将軍直轄領で、私の、先祖達の、管理地であった。 さて、前回、秩父と、奥多摩にまたがる、「三峰神社」が、1900年前に、先祖の、ヤマトタケル命(みこと)が、創建した事を、お伝えしました。 これは、古代の出来事ですが、 今回は、それとは逆に、明治維新前、秩父、奥多摩が、先祖の、管理地であった事や、先祖が、絹織物に関係していた事、そして、政府軍と戦った「秩父事件」について、述べて行きます。 私の先祖は、いつの時代でも、日本の歴史に、大きく、関係してきましたので、私の調査や、学説も、他の研究者の方々の、参考になるかと思います。 前半は、父方の、祖父の、先祖を中心としたもので、御嶽教、甲源一刀流、絹織物、秩父事件、自由党などが、出てきます。 日本の、政党政治は、うちから始まった、と言っても、過言ではないのです。 また、父の祖母、の方は、水戸藩の、御殿医であった、と言う事で、これは、また、別に、調査が、必要となります。 後半は、平安、鎌倉に、さかのぼり、清和源氏、「鎮西八郎為朝」が、出て来ます。 ここでは、「鎮西八郎為朝」が、琉球王朝を、開いた事や、平安時代に、琉球に、地頭がおかれていた事が、述べられております。 (2)江戸時代の、新興宗教、「御嶽教」の開祖「普寛行者」と、先祖の関係。 1、私の先祖とも言われる、「御嶽教」の創設者、「普寛行者」であるが、子供がいなかった、と言われているので、これが、事実であるとすれば、先祖ではない。 江戸の、幕末に近い頃、この三峰山で、修行し、「御嶽講」を起こした、「木村好八」と言う者が居た。 後に、御嶽講を、起こした「普寛行者」である。 御嶽講は、御嶽教となって行くが、明治の、「廃仏毀釈」で、神仏は、分離され、複数の教団に、分かれて行く事になる。 私の父は、彼を、先祖だと言っていたが、子供が居なかったらしく、それならば、先祖ではない、事になる。 しかし、彼の、遺産は、うちが受け継いでいた様である。 と言うより、うちの先祖である「大島氏」の土地に、「普寛行者」が、神社を作ったと、言った方がいいのかも知れない。 もし、そうならば、「大島氏」の土地を、うちが、相続した事になる。 ともあれ、両方とも、親戚である事は、間違いないと思う。 この、「大島氏」については、この後、述べる事にするが、 「三峰山」の近くに、大滝村があり、彼の生地は、そこであるが、付近に、「秩父御岳山」がある。 これと、「両神山」が、うちの山であったが、少なくとも、私が、子供の頃まで、所有していた様だ。 これは、父からの、伝承だが、私としては、半信半疑である。 山に、1坪、土地が在っても、うちの山、と言っているのかも知れないし、これらの土地は、後の時代に、カネで、買ったのかも知れないからだ。 しかし、江戸時代には、うちの先祖や、その親戚筋が、この地を、支配、管理していた事は、事実であろう。 ■ 秩父御嶽山1080m 展望広がる山頂 埼玉県秩父市 2019/4/28 2、江戸時代、秩父は、将軍直轄領であったが、うちの先祖が、管理していた。 その時代、この地は、「将軍の直轄領」であったが、明治維新後は、「天領」と、言われる様になる。 将軍直轄領の時代は、甲斐の国の、甲府城(山梨県)は、江戸城が、攻撃された場合、将軍が逃げ込む、城になっていた様だ。 その様な、重要な城である為か、元禄時代には、あの、大老格の「柳沢吉保」に、領地として与えられているのである。 また、甲斐の、西の地域には、徳川、御三家の、尾張藩が、その守りを固めていたが、そこには、日光系修験者であった「普寛行者」が、開闢(かいびゃく)した、御嶽山がある。 「普寛行者」は、千葉周作と並ぶ、江戸の剣豪であったが、酒井雅楽頭・家(さかい うたのかみ・け)を出て、修験者となり、御嶽山の登山道を作り、一般人でも、登れる様にして、山岳仏教や、修験道を、広めた人物である。 その、彼の拠点が、秩父であり、江戸から、奥多摩に続く、東の、守りの地域でもあった。 この直轄領を、治めるには、郡代か、代官を置くのが、普通であったと思われるが、この地域の代官に、「木村氏」が、多かったのは、事実であり、「普寛行者」も、その親戚筋であったと思われる。 将軍直轄領は、450万石なので、外様大名の、それとは、比べ物にならない位、石高は、大きい。 この普寛行者(木村好八)は、浅見家に、養子に入っており、浅見右近(左近?)と、名乗っていた。 普寛行者の、生存期間は、(1731年~1801年)である。 彼が死んだ時に、彼が、浅見家の、婿養子では無かった為に、浅見家と、無関係な、妻には、相続権が無く、結局、浅見の、親戚筋へ、その土地が、相続されたものと思われる。 それが、うちである、と考えられる。 また、先祖の、関根氏は、清和源氏の、足利氏の流れと思われるが、「新田義貞」の、家老で、義貞の、娘をもらっている様だ。 また、児玉党「浅見氏」とも、血縁関係があった、と言う伝承もあるが、この件、については、また、別な機会に述べる事にする。 ■ 普寛行者 ■ 両神御嶽神社(金剛院)平成30年6月 以前、父に、江戸時代の、うちの勢力図を、尋ねた。 すると、地図を見て、奥多摩から、秩父、そして、甲州の山岳を包む様に、御嶽山までの領域である、と言った。 現在の、東京の半分くらいの面積が、その勢力範囲だった様だ。 これは、将軍直轄領の、軍事力とも言えるものだろう。 将軍直轄領が、450万石で、うちも、一族を動員すると、20万石位は、有ったのかもしれない。 三峰神社は、10万石の、格式であったので、やはり、直轄領は、すごいと思うが、 その勢力が、後の、秩父事件へと、繋がって行ったのだと思う。 (3)江戸時代、秩父の神官であり、代官であった、「大島氏」は、明治時代の、内戦「秩父事件」で、密かに、散って行った。 1、清和源氏、鎮西八郎為朝の子孫、大島氏。 さて、今日の、「ご先祖様の、日本史探訪」のメインは、将軍直轄領や、旗本領の代官であった「大島氏」について、述べて行こうかと思います。 戦国時代、私の、父の先祖、及び、その親戚は、「武蔵鉢形城」に、多く存在していました。 今でも、彼らの、子孫と、一部、親戚関係にありますし、この、地域の人々は、同族なのです。 戦国時代、「武蔵鉢形城」は、後北条氏に属し、武田と、対峙していました。 その時代の、大島氏は、さらに、両神山の近くに、館城を、持っていた様です。 江戸時代になると、大島一族は、将軍直轄領や、旗本領の代官をしていたり、神官も、つとめて居た様です。 図書館で調べていると、「和田村神官、大島」と言う記述を発見しました。 和田村と言うのは、現在の「行田市」にあった様で、確か、代官屋敷が、埼玉県の、重要文化財に指定されていた、と言う記述もあった様です。 代官は、下級旗本が、就任する場合が多く、それ以外では、庄屋(名主)、神官が、なったりした様です。 私の父は、「大島氏は、取締役」、と言っておりましたので、それは、代官であり、関八州取締役ではないか、と思ったのですが、 しかし、仮に、代官だとすると、関八州取締役ではありません。 関八州取締役は、代官所の、下役人が、任命されるもので、あったからです。 おそらく、取締役の、意味は、この地域の、代官全体、及び、関八州取締役を、統括する立場だったのでしょう。 「泣く子も黙る、関八州取締役」 この時代、「将軍」が、天皇の様な存在であり、「老中」が、今の総理大臣、「勘定奉行」が、財務大臣で、「代官」は、その下の、地方官僚の様な存在、鎌倉時代で言えば、「地頭」ではなかったか、と思われます。 大島氏、の場合、「島原の乱」の時代には、老中、松平伊豆守の、指南役とも、言ってましたので、剣術指南役の事ではないか、と思うのですが、伊豆守は、「武蔵忍藩」3万石の(後に、川越藩6万石も兼ねた)大名でしたが、地域も、同じ行田です。 ネットで、「伊豆守の家臣」を調べますと、家老の、「和田」と、「大島」と言う名前が、確認できます。 また、大島は、伊豆を支配した、鎮西八郎為朝の子孫と考えられますので、松平伊豆守信綱の、「伊豆」と言う官職名も、指南役の「大島氏」(伊豆大島)にちなんで、付けられたものなのかも知れません。 もう少し、後の時代に、この両神山に、「甲源一刀流の道場」ができ、門弟3000人と言われた時期もありました。 道場は、甲斐源氏「逸見」と、その親族「浅見」による経営だと思いますが、それらは、大島氏の、支配下の地域ではなかったか、と思われます。 うちの父は、甲源一刀流の、宗家と言っておりましたので、もしかしたら、この方たちも、私の、先祖である可能性がある、と言う事になります。 何分、父の発言にだけに、頼る事は出来ませんので、情報収集に、つとめて居るのが、現状です。 ■ 20200922日本百名山「両神山」八丁峠コースで鎖場を満喫 それで、日々、調べていた所、実際に、大島氏の、子孫の方の、ブログがありまして、やはり、両神村から、嫁をもらった、となっております。 それ故、「ご先祖様」の記事を書く事にしたのですが、 鎮西八郎源為朝の末裔 ― 大島家 この方の記事によると、大島氏は、伊豆と関係が有る、と言う事です。 やはり、松平伊豆守は、有名な、鎮西八郎源為朝に、憧れて「伊豆」と、名乗ったのでしょう。 その大島氏の、子孫である、私の先祖、大島氏は、「秩父事件」に、巻き込まれ、切腹。 家族を逃がし、 大島(源太?)氏の娘と、(おそらく、奥多摩の庄屋・代官の?)「小峰偉十郎」、の息子が、一緒に、関根氏の、養子になった、と言う事らしいのです。 実際、奥多摩の庄屋に、小峰家は、存在したようです。 小峰家のルーツは、結城氏であり、小峰城に住んでいましたが、秀吉の、「小田原征伐」に加わらなかった為、奥州仕置の際に、城から、追い出されました。 小峰家の、本家は、伊達藩に、吸収されましたが、甲斐に、逃れ、「藤巻」と、名乗った者もいた様です。 それが、江戸時代になって、多摩地方へ、移動して、庄屋になったものと、思われますが、 この、小峰家から、真田家に、養子に入った、「真田範之助」が、おります。 大河ドラマ「青天を衝け」に、出て来たと思うのでが、彼は、幕末の志士で、剣術に秀で、「天然理心流」の免許皆伝、さらに、千葉道場で、「北辰一刀流」の、使い手となっております。 ---- NHKの大河ドラマでは、板橋駿谷が、「真田範之助」を、演じていた。 彼は、水戸の、「宍戸藩」とも、関係していた様ですが、宍戸と言えば、「宮本武蔵」に、出て来る、「宍戸梅件」で有名な、「八重垣流」があります。 「八重垣流」は、鎖鎌、薙刀術の、流派ですが、これも、うちが、総家であると、父が、言っていた事から、やはり、先祖の、小峰偉十郎は、「真田範之助」の、叔父や、兄弟、あるいは、親戚筋ではないか、と思われます。 真田氏は、戦国時代に、有名になった、あの「六文銭」の、真田の一族です。 さらに、私の、父方の、祖母は、水戸藩の、御殿医の娘であった、と言っていた事からも、「真田範之助」を通じて、水戸藩との関係が出来たと、容易に、想像がつきます。 また、小峰家は、結城家から出ていて、水戸藩の家老格にも、結城氏が居たので、同族意識は、あったはずです。 しかし、残念な事に、水戸の結城氏は保守であり、「真田範之助」は、勤皇の、水戸天狗党に、近い関係であった様です。 ところで、言い忘れましたが、小説「宮本武蔵」の作者「吉川英治」によれば、宮本武蔵と、宍戸梅件は、実際には、戦って無いし、 宍戸梅件、そのものも、創作された人物と言う事です。 この様に、父からの、伝承が、正しければ、うちは、「甲源一刀流」と、「八重垣流」の宗家であり、また、「真田範之助」が、極めて近い、親戚筋であったとすると、「天然理心流」「北辰一刀流」も、極めて、深い関わりが、あった事になります。 「天然理心流」の、道場では、近藤勇や、沖田総司や、土方歳三よりも、「真田範之助」の方が、格が上だった様です。 その関係か、どうかは、分かりませんが、うちには、備前長船や、「土方歳三」が、持っていたのと、同じ刀、井上和泉守国貞か、あるいは、和泉守兼定らしき、刀が、有った様です。 私は、見たことは無いのですが、仮に、それが、本物であるとすると、結構な、値段には、なると思います。 ちなみに、今度、「土方歳三の刀」が、映画化される様です。 これが、私の、父方の、曽祖父(そうそふ)、曽祖母(そうそぼ)の、家系なのです。 明治期には、養蚕だか、絹織物だかに、関係していた様です。 現在、国宝、世界遺産となった「富岡製糸場」にも、関係していたと思われますが、絹織物、養蚕は、大河ドラマの、「渋沢栄一」の実家も、やっていた様です。 皆、本当に、新しい、時代がやってきた、と言う思いだったのでしょうが、 しかし、国際的な、絹織物の価格が、大暴落し、秩父事件に、巻き込まれて行きます。 これは、ロスチャイルドによる、価格操作による、暴落と思われますが、日本は、デフレスパイラルに、入って行きます。 この事が、曽祖父(そうそふ)「大島」と、「渋沢栄一」との明暗を、分けて行きます。 ・ 「大島」は、政府軍と戦い、切腹。 ・ 「渋沢栄一」は、資本主義の父と言われ、栄達の道をたどります。 ■ 秩父の歴史「秩父事件」と中心市街地の散策 埼玉県観光 (4)「秩父事件」とは、西南戦争に次ぐ、大規模な内戦であり、日本史上、最大の、百姓一揆とも言われ、「秩父困民党」を結成。その後、自由党員と、革命政権を樹立し、政府軍と交戦。 【 1、秩父事件は、いつ頃、起こったか。(政党政治、前夜)】 1868年 明治元年(1月25日) 1872年(明治5年)群馬県「富岡製糸場」(現在、国宝。世界遺産。) 1883年(明治16年)フランスの、リヨン取引所で、生糸(きいと)価格の大暴落。 1884年(明治17年)10月31日から11月9日「秩父事件」 1894年7月25日 – 1895年11月30日、日清戦争。 1900年(明治33年)中国を抜いて世界一の生糸輸出国。 1904年2月6日 - 1905年9月5日、日露戦争。 1914年7月28日から1918年11月11日、第一次世界大戦。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。 1939年9月1日 - 1945年9月2日、第二次世界大戦。 【 2、秩父事件の、原因 】 フランスの「リョン」の、絹織物の、価格が大暴落。 デフレ・スパイラルに入りで、養蚕業の、農家は、大打撃をうけた。 これは、グローバル、金融資本家「ロスチャイルド」による、価格操作の為か? たまりかねた民衆は、各地で、暴動を起こす事なるが、 秩父では、自由党員が中心となって、「秩父困民党軍」を結成し、一斉蜂起し、政府まで、樹立したが、鎮圧された。 これは、自由民権運動の、始まり、と言ってもよい社会現象であった。 この、「自由党」は、「板垣退助」が、結成したものだが、現在の、自民党も、この流れの中にある。 この地域は、古くは、武蔵七党の、「児玉党」の拠点の地域であった。 私の先祖の「浅見」は、児玉党であったが、 その児玉党から、戦後、二人、総理大臣を出している。 それが、自民党の、「福田 赳夫」「福田 康夫」である。 【 3、秩父事件の、経過 】 それは、まだ、日本に、政党政治が、無かった時代の事であった。 デフレスパイラルで、破産状態になった、秩父の、農民たちは、集結し、「困民党」を結成した。 これが、日本史上、最大の、農民一揆とも言われた、「秩父事件」の始まりである。 農民たちは、暴動を起こし、高利貸しなどを攻撃し、暫定政府を作った。 明治政府は、軍隊を、派遣したが、「困民党」軍は、初戦に、勝利したので、勢いに乗り、その勢力は、長野、群馬に波及し、賛同するものは、1万人以上に、膨れ上がった。 しかし、数日間で、決着がつき、7名に死刑判決、約14000名が処罰された。 西南戦争の場合は、西郷軍30000人と、政府軍60000人の戦いであったが、この戦いでは、死者が、双方、合わせて、13200人、であった。 秩父事件では、「困民党」軍は、10000人ほとであったが、死者は、殆ど、出なかった。 これは、「困民党」軍の、幹部たちの中に、自由党員がいて、この反乱自体が、自由民権運動の延長上にあった為、と考えられる。 話し合いによって、物事を、解決しょう。 それが、政党政治であり、それを、推進する運動が、自由民権運動だったからである。 それ故、この反乱は、世界各地でみられる、暴動に近いものであったと思われるが、単なる、暴動と、違う所は、「総理」を、選出した事にある。 この総理が、日本最初の、総理大臣なのである。 【 4、大島と、秩父事件との関わり。 】 反乱は、当初は、3000人であったが、その3000人と言うのが、先祖の、「大島」配下の、甲源一刀流の、門弟数と、同じ数なのである。 私が、思うに、この、鎮西八郎為朝の子孫である、元代官が、門弟たちの、決起に、ゴウサインを出したのではないか、と思われる。 大島の名は、表には、出ていないが、密かに、切腹し、果てたのである。 そして、彼の娘は、小峰氏に嫁いでおり、親戚筋の、関根氏の養子となり、難を逃れたのである。 大島は、なぜ、決起を促したのか? それは、かつての、領民たちが、高利貸しの、高額な利息と、明治政府の、重税に、苦しんでいるのを、見過ごせなかったのであろう。 【 5、大島の子供は、生き残ったが、破産状態になり、孫は、東京の浅草に出て行った。 】 また、大島、小峰の、子供達は、命拾いは、したものの、「秩父事件」の処罰や、高利貸しの高金利や、重税は、一向に、変わる気配も無く、家が差し押さえられ、彼らの、息子である、祖父は、浅草に出て行く事になる。 浅草は、その当時の、日本の文化の中心的な町であった。 ところが、そこに、やって来たのも、つかの間、今度は、「関東大震災」に、見舞われる事になり、東京は、焼け野原になってしまう。 本当に、文明開化と言われる時代は、悲惨な、時代であった、と思う。 しかし、そんな、焼け野原の中、祖父は、御嶽教の、人々に声をかけ、材木を、浅草に、運び、東京復興に、ひと役かったのだと、思う。 これは、私の、推測だが・・・、 「御嶽教」の、信者には、材木商が、多かったのである。 つまり、木曽の、檜(ひのき)を、取り扱っている材木商が、東京の復興に、活躍したのだと思う。 その為、浅草の木場も、活況をていし、 祖父に、材木商の、旦那方が、頭を下げるので、木場の、人足や、お親分方も、頭があがらず、下にも置かない状況だたと思う。 祖父は、「浅草の町長」になった(?)、と言っていたが、おそらく、そう言う事から、人望が高まった為と、思われる。 もっとも、正式な、町長か、どうかは、分からないが、東京市の時代の、浅草区の中の、町長か、あるいは、「その地域の、顔役で、偉い旦那」と言う意味かも知れない。 何分、私自身が、生まれてない時代の事なので、想像するしかないのである。 また、母は、自民党の、「荒舩清十郎」は、祖父の、子分だと、言っていたが、これも、本当かどうかは、分からない。 「荒舩清十郎」の、関係者の方々、どうも、すいません。 その様な、状況から、吉原などの、遊郭からも、身代を譲られて、羽振も良くなったのだと思うが、相撲や、芸能関係の、タニマチなんかも、やっていた様だ。 写真を観ると、ディック・ミネや、淡谷のり子など、当時の、芸能関係者が、写っている。 その時代、芸能の中心は、浅草だったのである。 この時代の、雰囲気は、「永井荷風」の、濹東綺譚(ぼくとうきだん)などをみれば、分かると、思う。 しかし、そんな、安定した生活も、長くは、続かなかった。 やがて、戦争がはじまり、東京大空襲が、始まる事になる、そこで、祖父たちは、埼玉の、実家に、疎開し、農業をやる事になったのである。 ■ 鬼滅の刃塗絵帳-紅-/吾峠呼世晴【3000円以上送料無料】 なお、この、秩父にある、三峰山の、「雲取山」が、最近、流行の、「鬼滅の刃」の、舞台となっている事や、「富岡」と言う、登場人物が居る事から、もしかしたら、甲源一刀流が、そのモデルになっている可能性もある。 一昔前の、中里介山の、小説、「大菩薩峠」では、主人公の、盲目で、ハレンチな、殺人鬼「机竜之助」が、甲源一刀流と、戦う事になる。 また、「鬼滅の刃」と言うタイトルは、私の、先祖の「源頼朝」に受け継がれた、「鬼切丸」が、そのモデルか? (5)大島氏の先祖は、「鎮西八郎為朝」で、平安時代の、末期、沖縄王朝を築いた。 琉球には、「琉球地頭」がおかれ、鎌倉幕府が、統治していた。 【 1、大島氏の先祖は、鎮西八郎為朝で、平安末期に、沖縄を支配し、王朝を築いた。 埼玉県の、「大里郡」は、為朝の妻で、沖縄の「大里」氏の名前から、来ている。】 私の先祖に、伊豆七島や、沖縄と、関係した、源為朝がいる。 為朝は、「鎮西八郎為朝」と言われ、色々な、逸話が残っている。 「保元の乱」で捕らえられ、伊豆大島に、流されたが、その土地を、掠領(リャクリョウ)、つまり、強奪してしまう。 その為、為朝討伐の、院宣が、下され、討ちとられた、となっている。 ところが、別の説があり、それは、別人で、為朝は、沖縄に逃れ、琉球王朝の素を築いた、と言うものである。 ここで、ややっこしい、のだが、また、類似の、別な説がある。 ■ 琉球に着いた為朝 私は、これが、一番、正しいのではないか、と思うのだが、その内容は、 討伐軍が、大島に来る前に、為朝は、伊豆七島の制圧に、船出していた所、流されて、琉球へ、たどり着いた、と言うものだ。 為朝は、琉球の、女性「大里按司の妹」と結ばれ、子を生した、と言うもので、その後、伊豆七島へ、戻って来た、と言うものである。 私が、この説を、推す理由は、埼玉県に、大里郡(おおさとぐん)と言う地域があり、その語源が、「大里按司(おおさとあじ)の妹」から、来ているのではないか、と思われるからだ。 また、沖縄にも、「大里村」が、存在し、首里城とは別に、宮殿があった様だ。 さらに、埼玉県の、「大里郡」は、「平安時代」に、その、記録のある地名である。 つまり、この二つは、時代的に、マッチするのである。 もしかしたら、埼玉県の、「大里郡」は、「源為朝」が、「源頼朝」を、助けた事によって、与えられた領地だったのでは、ないだろうか。 その証拠に、「鎮西八郎為朝」の四男の家系が、奥州閉伊郡半地の、地頭に、補された「嶋為頼」を祖とする「閉伊(へい)氏」と言う記述がある。(ウィキペディア) ちなみに、奥州藤原氏が、滅ぼされたのは、源義経を、逃がしたからであり、義経(あるいは、彼の息子?)は、チンギスハンになり、タータリアを、築いた可能性がある。 そして、元寇で、日本に攻めてきて、気象兵器で、撃退され、またもや、鎌倉に、勝てなかった、と言う事なのかも知れない。 また、モンゴルの、樺太侵攻で、後に、アイヌ人と呼ばれる、者たちが、日本の、北海道へ、逃げてきて、縄文人の土地を、奪ったのである。 (縄文人が、アイヌとか言う人が居るが、文化が違う。 アイヌ人は、狩りに、毒を用いたが、縄文人は、用いなかった。) 東北に居た、アテルイなどは、スサノオ命の、子孫である「大国主(ダイコクサン)」の息子の夷(エビス)の、子孫であり、アイヌ人ではない。 いや、「アイヌ人」と言うものが、本当に、存在するとすれば、それは、スサノオ命の子孫である、とも言える。 【 2、沖縄は、平安時代には、地頭が、置かれ、日本の、支配領域であったが、第二次大戦戦後に、GHQによって、歴史が、改ざんされている様だ。 】 また、「琉球地頭(りゅうきゅう、じとう)」と言うのが、沖縄に在ったらしいが、鎌倉幕府と、関係がある、とすれば、納得できる事柄である。 が、しかし、これは、日本を、侵略しょうとする勢力にとって、都合が悪い話である。 それ故、真実の、歴史が、改ざんされた、可能性が高い、と思われる。 何時、誰によって、改ざんされたのか? 明治政府? やはり、戦後の、GHQによるものか? 戦後、多くの、書籍が、GHQによって、焚書された現実があるので、一番、怪しいのが、この時期である。 ところで、「ファントム時間」と、言うものがある。 これは、別な、記事で、書いたが、ローマ法王が、西暦を、「297年間」プラス改ざんしていた事が、分かっているので、それを、元に戻すと、2021年は、1724年となる。 それ故、「沖縄地頭」の、記録がある、大里按司の、王朝時代(1429年~)から、297年を引くと、1132年となる。 (為朝は、大里按司の妹と、結婚しているが、この王朝時代の、年代は、大里按司が、生まれた年から、計算されているものと、思われる。) 「頼朝」が、諸国に、地頭を、置いたのが、1185年(まだ、平安時代)として、丁度、時代的に、合致する。 大体、「地頭」などと言う名称は、鎌倉時代(1192年~)のものであって、いきなり、室町時代の、沖縄に、出現する訳が無いのである。 つまり、この、「沖縄地頭」の存在は、沖縄が、平安時代から、日本の領土であった事を、示すものである。 沖縄は、決して、島津が、侵攻したから、日本の領土になった訳ではないのである。 何? 「それじゃ、鎌倉幕府の、1192年からも、ファントム時間を引け。」 確かに、そうかも知れないが、これは、とりあえず、私が、気付いた「地頭」に関してのみの事で、地頭が、ダブル改ざんされているのでは、と言う事なのである。 つまり、2回の、同じ改ざん、がなされた、と言う事なのである。 その一つは、琉球王国として、もう一つは、島津が、併合した記録から、である。 上記の説明に用いた年代、つまり、我々が信じている、通常の年代であるが、それは、ファントム時間を、引いてないものである。 (だから、琉球地頭のみ、1回分、引いた数字1132年、を表示したのである。) それ故、ローマ法王(イルミナティ)の、ファントム時間による、歴史改ざんも、日本の、沖縄を、乗っ取る為の、策略だった可能性が出て来た。 何しろ、バチカンの、地下は、ネクロポリスで、「前方後円墳」の形を、しているのである。 また、日本の、古代の、天皇の、王子? が、ヨーロッパを、統治していた、と言う説を聞いた事がある位である。 その拠点が、レプテリアンに、乗っ取られて、「バチカン宮殿」が、建設されたと思われる。 もしかしたら、出どころは、「正統竹内文書」の、可能性もあるが、 その教祖が、近年、若いのに、突然死している。 これも、おかしな話で、消された、可能性は、無いのか? (6) 今日の、ご先祖様。 源満仲 源頼信 源頼義 源義家 源為義 源為朝 源為家(為政) 大島氏 景行天皇、ヤマトタケル命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、 清和天皇 貞純親王 経基王 「普寛行者」(浅見左近?) 新田義貞 逸見氏。 「赤字」は、今回、先祖と判明した方々です。 「青字」は、以前、登場した、先祖の方々です。 「黒字」は、グレーゾーンの方々ですが、ほぼ、先祖である事は、間違いない事だと思います。 が、しかし、もう少し、証拠が欲しいと思っております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年06月07日 23時32分02秒
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