ゴーフルと私とおばあちゃんと極楽と地獄と長いお箸の話
神戸にはたくさんの会社があっていろんな物を作っているけれど、食べるもので、神戸のブランドと意識して口にした最初の物は、ゴーフルだった気がする。昔はお中元だのお歳暮だの、いろいろ物をもらう機会があって、そこにはいつもゴーフルがあった。別に私の家族親戚が人に会う度にゴーフルよこせと言っていたわけではない。いろんな方が自発的にゴーフルを送ってくださっただけのことである。そういうわけで、一体子供時代にどれくらいのゴーフルを食べたかと聞かれたら、「おまえはこれまでに食べたパンの数を覚えているのか?」とディオみたいなことを言うしかないくらいなのだけど、そのうちの一枚とてうちで購入したものはなかったのであった。もちろん、貰い物なので、あるときは積むほどあるが、ないときは一枚もない。だけど、ゴーフルについては買ってもらおうとか夢にも思わず、またいつかゴーフルはやってくるからそれまで待とうという態度であった。他のお菓子のように「買って」とせがむことはなかった。大好物だったのに。また、大学に入って住居を神戸に移し、ゴーフル確保の点から言うとこの上ない利便性を手に入れたにも関わらず、神戸及びその近辺にいた11年間の間で、一枚のゴーフルを買うこともなかったのである。誰も私にそんなことは言わなかったのだけど、知らない間に「ゴーフルは自分で買って食べるものではない」と言う、根拠のない信念が潜在意識にすりこまれていたのだろう。それはどこか一人で焼肉屋に行きにくい、というのと似たような感覚で、どんなに手元にお金があってそこに神戸風月堂があって、店員さんがとても感じがよくてもゴーフルは、自分で買って自分で食べてはいけない何かになってしまっていたのだ。どこかの仏教のお坊さんが、極楽と地獄の違いについて語っていた。「地獄では、箸が長すぎて誰も自分の食物を口に入れることができません。 極楽も箸の長さは同じですが、私は誰か他の人の食物をつまんで食べさせてあげて、 他の誰かが私のために食物を長い箸でつまんで食べさせてくれるので、 みんなちゃんとごはんをおいしくいただくことができるのです。」おそらくゴーフルは、そのお坊さんが仰られた極楽における食事のような何かだったのだ。個人的には。無意識の信念に気づけば、それから解放されるという。今の私には、ゴーフルをワンクリックで購入することができるし、それを止めるものは誰もいない。しかし、それでもワンクリックにまだ踏み切っていないのもまた事実。今となっては、私にゴーフルをくれたおばあちゃんもいなければ、そんな頻繁に百貨店で買った物を送り合うような人間関係もないのに、私は何をためらっているのだろうか。ゴドーではなく、ゴーフルを待っていると言うのか。しかし、もしゴーフルを待っているのが私だけじゃないとしたら?広い世界には、私と同じような気持ちでゴーフルを待ってる人がどれくらいいるかわからない。それを確かめるには、今の友人にゴーフルを送ってみるより他あるまい。誰かが次またゴーフルを送り返してくれたならば、私的な古の善き習慣は復活されるのである。つまりはゴーフルのある食卓。