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八戸町は、明治維新から半世紀を経過したこの時期、周辺各地から多くの人々を引き受け、爆発的に戸数と人口を増加させていた。
明治9(1876)年は戸数1714戸、人口は9667人であったものが、大火のあった大正13(1924)年には戸数3595戸、人口は1万9315人となり、戸数は2.1倍、人口も2倍に急伸していた。 八戸の町域は、城下町時代の空間と同一の狭い都市空間に、多くの人口流入を抱え込んだため、町全体の家屋の密集度が極めて高まった。 このような戸数と人口の膨張が、大火災を引き起こす背景にあったと言える。 それでは、戸数と人口の膨張という背景の中で、どこの腸内に大火被害が多く、しかもどのような改装に被害が集中していたのであろうか。 大火後、八戸町役場は「八戸町火災救済誌」を編纂したが、この中に罹災者調が掲載されている。 この罹災者調は、焼失戸数における町内ごとの無産者、中産者、資産者の階層に区分して、被害者数を記録している。それによれば、焼失戸数に占める無産者数割合は、1393戸中869戸、実に62%も占めていた。 この無産者とは、人口増加によって形成された低所得者層であるから、間借りや借家、あるいは家があったとしても、小規模な家屋に住んでいたはずである。 このような家屋に住む無産者が、6割を超えるほどの被害を受けていたのである。 これは、八戸町の家々は軒を連ねるように立て込んでいたことを意味し、一度火災が発生すれば、たちまち延焼の危険度が高まったということだ。 また罹災者調から町内ごとの被災者を見ると、罹災町内のうち無産者の焼失比率が高い町内は、本鍛冶町(91%)、十一日町(89%)、下大工町(87%)、下組町(85%)、窪町(85%)、二十六日町84%)、岩泉町(82%)、鷹匠小路(80%)と続く。 主に裏町や場末の下町地域が多い。これは、それらの地域に小規模な家屋が密集していたことを示している。 焼失地図を一見すれば、延焼地域が十三日町などの表町よりも、無産者の多い裏町や下町地域に、帯状に広がっていることが読み取れる。 以上のことから、急激な人口の増加により、手狭な場所に住居が立て込み、とりわけ無産者が住む裏通りや下町地域の密集こそが、風の激しさと相まって、大火に至らしめた大きな要因であったといえる。 その外、当時の一般民家の多くは板葺き屋根の木造建築であったこと、街路は狭い上に、城下町特有の入り組んだ街区が多く、町全体を有機的に貫く幹線道路がなかったことなども理由に挙げられる。 こうしてみると、八戸は大火は単に強風がもたらしたものではなく、都市特有の災害であったことは明らかである。 この火災を契機として、町の課題として浮かび上がったのは、住宅地の供給であり、防火帯としての機能を併せ持つ道路の拡幅と幹線道路の開設、消防用水に対応できる水利施設の充実、建物の不燃化などだった。 わけても緊急なものは、街路の拡幅と上水道の敷設であった。街路の拡幅は進められたが、火事の切り札ともいえる上水道の着工は、大火から24年経った昭和23(1948)年まで待たなければならなかった。 八戸大火から100年 (5)に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.28 07:37:59
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