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「伊達政宗と奥羽再仕置」と題して、仙台市博物館学芸員の佐々木徹さんが講演しました。
![]() 伊達氏は鎌倉時代、陸奥国伊達(現・福島県北部の伊達市)を与えられ、伊達氏を称したのが始まりです。 天正12年(1584)、政宗は18歳で伊達家17代当主になりました。本拠は父と同じく米沢(現・山形県)でした。 母親は正室で、最上義光(現・山形市)の妹です。この関係からか、政宗はのちに、最上義光と行動を共にすることになります。 天正17年」(1589)6月、伊達政宗の軍勢が、奥州会津の戦国大名蘆名(蘆名)氏の軍勢を磐梯山麓で撃破(摺上原=すりあげはらの合戦)、蘆名氏居城に黒川城(会津)へ入城しました。 蘆名氏は実家の佐竹(当時は現茨城県)に逃げました。この勝利をきっかけに、政宗は南東北の大半を手中にすることになりました。 下図は、1584年頃の南東北の戦国大名と主な領主です。 ![]() しかしこれが関白・豊臣秀吉の逆鱗に触れます。この合戦が、豊臣政権が掲げる「惣無事=そうぶじ」の方針に触れるため、「秀吉への挑戦」と受け止められました。 惣無事の方針とは、全国の大名、領主らの私戦を停止し、彼らを上洛・臣従させて、豊臣政権下へ一元的に編制しようとする政策のことです。 豊臣方から伊達方へは、2年前から上洛(=服属)の催促が数度ありましたが、政宗は南東北で種々の合戦を推し進めていました。 堪忍袋の緒が切れた秀吉は、上杉景勝・佐竹義重に対して伊達市への軍勢派遣と蘆名氏復帰の助力を要請しました。 政宗に対しては無断での「会津乱入」を責め、討伐軍の派遣を示唆しながら、厳しい口調で弁明を迫りました。政宗も弁明の使者として、家臣を数名上洛させました。 天正17年11月、秀吉は関東の北条氏を討伐すると宣言しました。秀吉が当面の標的とした伊達氏と北条氏は早くから友好関係を結び、佐竹氏を挟撃しようと考えていた間柄です。 政宗はこの段階においてもなお佐竹氏攻めを模索していましたが、家臣による京都での交渉、前田利家、浅野長吉(のち長政)、木村清久(のち吉晴)らの取り成しもあり、 政宗自身が上洛すれば、厳しい処分を免れ得る可能性がありました。天正18年(1590)正月には佐竹攻めを延期しました。 更に3月、北条氏の居城である小田原城への秀吉の出陣が決定しました。それに合わせて、政宗が速やかに秀吉のもとへ参候するよう促す書状が、豊臣方の諸氏から相次ぎ、政宗も遂に小田原参陣を決意しました。 伊達政宗と奥羽再仕置 史跡根城歴史講演会(2)に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.26 09:26:01
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