カテゴリ:仙台の歴史
良覚院丁(りょうがくいんちょう)
かつて良覚院というお寺があったから「良覚院丁」。 今は仙台市青葉区一番町二丁目、大町一・二丁目、片平一丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示) 〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕 この公園は良覚院の庭園を残すために作られたそうです。 公園の東隣は「緑水庵」という茶室。ここにも良覚院の庭園が残されています。 公園から少し離れた青葉通の晩翠草堂前には「良覚院丁/元荒町」と記された辻󠄀標が建っていました。(辻󠄀標19番。昭和54年設置) 良覚院丁は広い町だったようです。 辻󠄀標の資料には、良覚院丁について次のように書いてあります。 「本山修験東北一の大先達良覚院の北と西をT字に囲む通りであった。 良覚院は政宗以来仙台以北を霞としたが、明治初年修験宗は禁止され実業家佐助が保存して市に寄附した庭園(良覚院丁公園)に名残をとどめている。 北側の通りは青葉通に吸収された。」 ※「霞とした」とは、仏教の修験道で、山伏たちの支配地域のことのようです。 そして、公園の説明板にはこのように書いてありました。 「良覚院丁は、昔、京都の聖護院の末寺で良覚院という修験の寺があったことに始まる。 良覚院の始祖、日林は修験者であって、伊達家の祖、朝宗(正治元年、1199年没)に従って常陸国中村(茨城県)から伊達郡(福島県)に移り、以来、世々伊達家に仕え祈祷の事をつかさどってきた。 その後、政宗が岩出山から仙台に居を移した慶長7年(1602年)一緒に従ってきた良覚院の修験者がこの地を賜ったのである。 この修験寺は、藩政時代藩内の修験の元締めとして、政治や軍事、事業あるいは日常の吉凶運勢について祈祷をした場所であり、代々伊達家の信頼が厚く一門格の待遇を与えられ、領内山伏の総触れ(連絡や伝達を図る役)として当時は威勢をふるっていたという。 明治5年修験道の廃止で廃業」 「仙台市の復興事業により、この由緒ある庭園が南北に分断される形で区画街路が計画されたが、地主と市民の間から名園であるので残して欲しい旨の申し入れがあり、計画が変更され公園として残されることになった」 伊達家の信頼が厚かったと…。なるほど。良覚院が仙台城にかなり近い場所に置かれた理由がわかったような気がします。 そして、地図を見ると「五ッ橋通」が良覚院丁公園を避けるように、ちょっと不自然に曲がっている。これがおそらく、戦災復興事業の時の保存活動の成果なのでしょう。 山伏のお寺がここに… 勉強になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 28, 2024 09:33:31 PM
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