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写真1 写真2 写真3 死んだ児の年を数えるなと云いますが、死んだ橋を思い出すことは東京という都市が川を失った歴史を知ることで、有意義な回顧だと思います。 先ず手始めに江戸時代から日本橋と並んで有名な京橋を取り上げます。いま、京橋があった跡地に三つの橋頭が飾られています。謂わば消えた京橋の痕跡です。 江戸城への主要な水路は、日本橋が架かる日本橋川でしたが、その南側を並行して流れて外濠で日本橋川と繋がる京橋川も重要な水路でした。消えた京橋川の位置を現在の構築物で示せば、首都高速の西銀座ジャンクションと京橋ジャンクションの間の道路の下です。 日本橋・京橋地域は江戸時代から商業の中心地でした。また、日本橋は明治に入ってから銀座に繋がる土地として賑わいの場所でした。しかし、戦後間もない昭和30年代の初期に、東京駅前を通る外濠が埋め立てられて道路になったとき、京橋川も同時に埋められて、その上を首都高速道路が走ることになったのです。 川を失った橋は不要になり、首都高速道路下の京橋跡に橋の橋頭だけが残されました。その立派な石造の橋頭から見て、京橋も日本橋に劣らぬ立派な橋だったことを窺わせます。 京橋の親柱については、中央区教育委員会の説明によれば、橋北詰東側と橋南詰西側にある二本は明治8年当時の石造で、江戸時代の橋の伝統を継ぐ擬宝珠の形をしており(写真1、2)、橋南詰東側にある一本は大正11年に架けられた石およびコンクリート造です(写真3)。 因みに、往時の日本橋の橋頭とおぼしきものの写真も掲げておきます。これは向島百花園の庭にあるもので、その説明文には、「日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各ある。これは石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える」と書いてありました(写真4)。 (以上) 写真4 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.09.27 12:07:11
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