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東京今昔物語  (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ より)

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2011.03.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
永代橋-05D 05q
写真1 永代橋

竹芝桟橋より-05D 1102qt
写真2 勝鬨橋

晴海-09P 02qt
写真3 レインボーブリッジ

隅田川の始点が岩淵水門なら、隅田川の終点はどこでしょうか?
佃島と石川島が島であった時代、そして月島が埋立てられていない頃、隅田川の河口は現在の永代橋の辺りでしたから、そこが隅田川の終点でした。

江戸時代、当時の永代橋は、江戸湊の外港近くにあったので、その橋下を多くの回船を通過させるため橋脚を高くしました。従って、その姿は、恰も海から江戸に入る「門」のようでした。

明治の中頃から始まった月島の埋立てが進むと、隅田川の河口は永代橋の地点から海側に押し出していきます。しかし、永代橋より川下には長い間橋は架けられませんでしたので、海から都への最初の「門」は引き続き永代橋でした。

永代橋は、明治30年に架け替えられるときは鉄橋になりました。更に関東大震災の後に架け替えられたとき、「帝都東京の門」と言われた重厚なタイドアーチ橋になりました。海路で帝都を訪問する船にとって、堂々たる門構えとなりました。(写真1)

その後、永代橋の下流に勝鬨橋が架けられました(1940)。これは築地と埋立地の月島を結ぶ本格的な橋ですが、当時は未だ隅田川の水運が重要な役目を果たしていたので、隅田川を遡上する大型の船舶が通過できるよう、勝鬨橋は開閉できる跳ね橋方式になりました。(写真2)

勝鬨橋が跳ね上げた姿は、丁度「門」を開けた状態に見えますから、この時点で海からの門は永代橋から勝鬨橋に移ったと言えるでしょう。しかし、その後、水上交通より陸上交通の必要性が強まり、勝鬨橋の開閉は実際は行われなくなりました。

昭和時代になって、隅田川の地先の埋立事業は益々沖合へ進みます。月島から始まった埋立事業は晴海、豊洲、有明と南下し、お台場の島を飲み込んで、そこに今は広大な東京港フェリーターミナル基地が生まれました。

これらの臨海埋立地への乗り入れを容易にし、同時に首都高速都心環状線の交通渋滞を緩和するため、レインボーブリッジの架橋が完成します(1993)。レインボーブリッジはお台場と芝浦を結ぶ吊り橋です。長さも高さも今までの永代橋や勝鬨橋とは桁違いに規模が大きい橋です。吊り橋という構造も、「門」と言うのに相応しい姿態です。(写真3)

首都への海からの門は、隅田川の河口からやや離れていますが、今やレインボーブリッジになりました。
(以上)





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Last updated  2011.03.13 17:56:26
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