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江戸時代から今日に至るまで江戸・東京は、湿地帯を開拓したり地先の海を埋め立てて、町の領域を広げてきました。しかしお台場はそれらとは違っていて、海の沖合に島を造って出来た孤立した陸地でした。というのは、お台場は、町の領域を拡大するためではなく、江戸という都市を外敵から守るための要塞島として造成したからです。
アメリカのペリー艦隊が開国を迫り浦賀沖に現れ(1853)、幕府は江戸防衛のため海上砲台島を江戸湾に築きました。幕府の当初の計画では南品川の漁師町から深川の洲崎にかけて二重の首飾りのよう12基の砲台島を並べる予定だったと言いますから、その位置は現在の東京ベイエリアと呼ばれる東京湾岸地域に相当します。 幕府には財政的余裕がなかったので最終的には6基の台場しか造りませんでしたが、1年後に日米和親条約が締結(1854)されたので、幸い砲台は一発の大砲も撃たずに済みました。そして六つの台場は昭和の初めまで残っていました。 その後、船舶の航行に邪魔になるので取り壊され、残ったのは第三台場と第六台場の二つとなりました。現在のお台場は、この第三台場をベースにして埋め立て拡大したものです。第六台場はレインボーブリッジ展望台の足下に野鳥の無人島として残されています。(写真1、2、3) 現在のお台場と言われる地域は、東京港埋立第13号地と第10号地を合わせた地域であり、行政区分で言うと、北部は港区台場、西部は品川区東八潮、南部は江東区青海となります。 お台場は行政区が三つの区に跨がること、もともと島でしたから陸続きの埋立地と比べて往来に不便だったこと、そして何よりも広大な土地であることで、開発には長期間を要し、未だ完成していません。 戦後の昭和38年(1963)から埋立地としての開発が本格的に開始されました。昭和49年(1974)最初にお台場の西部の突端に船の科学館が開館しましたが、そこに至る途中の土地はすすき野の広がる荒野であり、東京港の海底を掘削した残土で埋め立てている最中でした。(写真4) それでも昭和54年(1979)に13号埋立事業が完成すると、臨海副都心開発の検討が始まります。マイタウン構想懇談会、東京都長期計画、東京テレポート構想、昭和61年の第二次東京都長期計画と矢継ぎ早に計画が打ち上げられます。 お台場の建設作業は昭和64年(1989)から始まりましたが、折しも土地バブル(1988~91)が発生してり、その絶頂期に船出したお台場開発は、間もなくバブル崩壊に遭遇します。バブル崩壊(1991~1993)の逆境を打開するため、お台場で「世界都市博覧会」を開催(1996)することを計画しましたが、当時の青島都知事は開発見直しを主張して、博覧会を中止させました。 世界都市博覧会が中止と決まると、お台場への企業進出や移転のキャンセルが相次ぎ、オフィス街として開発する計画は大幅に遅れます。その開発の遅れを取り戻すべく東京都では第三セクターを設けて開発事業の継続を図りますが、その後の開発は苦戦を強いられました。 しかし、その間にも公共交通機関の建設整備は着々と進められました。平成5年(1993)お台場への架橋であるレインボーブリジが完成し、平成7年(1995)モノレールゆりかもめが完成します。平成14年(2002)りんかい線が大崎で埼京線と繋がり直通運転が開始され、千葉方面へは新木場では京葉線との乗り換えが可能となりました。 (写真5、6)
そのため徐々に経済界にお台場に進出する気運が出てきて、フジテレビ本社の移転(1997)が実現しました。お台場新都市は日本の情報発信基地にしたいとの狙いがありましたから、最初にマスメディアの大企業が進出したことの意義は大きいものがありました。(写真7) 次回にその姿を見てみましょう。 (以上) 人気ブログランキングに参加 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.03.03 21:13:59
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