子育ても母親という立場も投げ出したくなる
息子が生まれる27歳まで好き勝手自分本位で生きてきて、その息子が4歳を過ぎて二人目の娘も1歳を過ぎてやっと、母親の自覚が芽生えつつあるのに気づく。
いろいろなことを簡単に諦められるようになってきた。
外食や、着たい服を着たり時間を自分のために使ったり、そういうことを諦めながら生きることにやっと馴染んできた。
母親になるということは世間的には幸せなことと捉えられていると思うけども、必ずしもそうではないように思うことが多々ある。
息子を産んだ直後から、「とんでもないことをしてしまった」と感じてこれからのことを考えて戦慄したのを、今もよく思い出す。
一回出産してしまったら最後、私には母親という役割が与えられそれは私が死ぬまで一生、むしろ息子が死ぬまで一生捨てることができないもので、どうしたってもう、息子を産む前の自分には戻れないのである。
息子を全うな成人に仕上げなければという重圧、息子が凶悪事件に巻き込まれないように守らないといけないという重圧、息子を失ったら私の生きる意味までなくなってしまうという絶望。
そんなものを抱えて産後ボロボロの体で夜中に授乳しながら途方に暮れていた。
頭の片隅で、産後だから、ホルモンバランスの急激な変化が、マタニティブルー、とかネットやなんかで聞き齧った言葉を思い出して、そうだこれがマタニティブルーか。 しばらくすれば元に戻るかな。とか思っていたけど、結局今も私はそんな絶望を抱え続けている。
もちろんもう慟哭はしていない。
絶望に慣れただけ。
私はもう母親であるという現実から逃げられなくて毎日その重圧と戦わなくてはいけなくて、今でもたまに途方に暮れる。
自分の自由は捨てないといけなかった。行きたいところに行ったり食べたいときに食べたいものを食べたり、会いたい人に会ったり。そんな自由が息子を出産したことにより奪われた。
自分が寝たいときに寝たり、起きたいときに起きることすらもできなくなった。
ひとつひとつを挙げれば些細なことなのかもしれないけど、それらは決して奪われることはないと信じて疑わなかった私の日常のひとつひとつだった。
なんでこどもなんてほしいと思ったんやろうかと考えることが今もある。
それはこどもたちを愛せないからとかそんな理由ではなく、それとはまた違った感覚の中でそう考える。
今頃独身ならどんな生活をしていたか、結婚していてもこどもがいなければ何をしていたか。
でも結局、私という人間は産めるタイミングがあればこどもを産んで単だろうなとも思う。
夜一人で梅酒を啜りながら読書してるとよくそんな考えに至ってしまう。
小さい頃完璧に思えた母親もこんなことを考えながら子育てしてたのかな。
今度会ったときに聞いてみよう。