ザビ神父の証言

2021/10/08(金)22:10

閔妃暗殺 8日の日記

日本史(522)

クロニクル 閔妃(びんひ)暗殺 1895(明治28)年10月8日 126年前のこの日、駐朝鮮公使三浦は、書記官や軍部を動員して、反日姿勢を強めていた閔妃の暗殺を決行しました。 この年、日清戦争に勝利した日本は、朝鮮王室に対する支配力を強めようとしていましたが、露・独・仏三国による、有名な三国干渉によって、遼東半島の租借権を清国に返還。その影響で朝鮮王室への影響力を低下させていました。 この間隙をついて、朝鮮政府と王室はロシアへ接近、日露のバランスをとることで、主権の回復を目指す姿勢を鮮明にし始めました。具体的には、王宮の警備を日本軍人が指導する訓練隊から、アメリカ人教官が指導する部隊に換え、日本離れを鮮明にしたのです。 この情勢にあせった三浦公使は、この日親日的な国王の実父、太院君を擁してクーデタを起こし、反日派の中心人物と言われた閔妃の殺害を決行したのです。 三浦は「日本人の仕業と分からないように決行せよ」という指示を出していたのですが、実働部隊は、そのようなスマートな暗殺を行う訓練を欠いており、王妃の顔も分からぬままに、服装などから、王妃と思しき人物を次々と殺害、しかも焦りから、使用を厳禁されていた日本語を乱発、日本語を解せぬ侍女たちを脅えさせるおまけまでつけ、変を聞いて駆けつけた各国公使に、日本人の蛮行であることを、つぶさに目撃されてしまったのです。 当然、日本政府には、各国から厳しいクレームがつけられ、日本の評判を著しく貶める結果に繋がりました。こうして、三浦は外交官として失脚、その他の関係者も厳しい処分を受けたのです。 昨夜の首都圏の地震へのお見舞いありがとうございました。幸い私の住む麻生区は一時期川崎のチベットと呼ばれた川崎市の最奥に位置するため被害はなく、無事でした。私個人は丁度風呂から上がるところで、湯船を出て身体を吹き始めたところで、ドーンと突き上げるような揺れに出会い、慌ててガス給湯器をオフにしたところで、揺れがあさまりました。全く無防備の状態で大地震に会うこともあるなぁと、良い経験になりました。

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