カテゴリ:外国史
宗教改革よもやま話 (15)
ルターは、熱心な修道士として、ひたすら聖書を読み、聖書を通じて自身の信仰を深めていったのですが、その過程で、彼は「信仰のみ」という考えに辿りついたのでした。 「人が救われるか否かは、日頃の行いによるのではなく、神を信じているかどうかだけによるのだ」というのです。ルターがこの命題に辿りつくにいたった根拠を、難解なラテン語の文章で綴ったものが、「95ヶ条の論題」でした。 ですから、ルターは民衆が「命題」を読んで理解することは、少しも期待していなかったのです。しかし、教皇や教会幹部の腐敗、堕落を快く思っていない人々も多かったのです。こうした人々が、ルターの主張が「贖宥状」販売を金儲けに利用しているカトリック教会とその関係者を批判していると聞きつけたのです。 彼らは、神学論争への関心ではなく、信仰への素朴な熱意と、聖職者の不正に対する怒りとを汲取ってくれるものとして、ルターの論題を支持したのです。 教会の内部にも、教皇や幹部の金儲け主義を快く思わない聖職者は、かなりの数に達していました。彼らは、カトリック教会の内部に留まって、改革を進めようとしたり、ルターに協力して、改革を進めようとしたりしたのです。 後者の立場を選択した人々が、絵入りのパンフレットを作成したりして、ルターと改革派の考え方を、分かりやすく民衆に伝える宣伝隊の役割を果たしていたのです。 ![]() 上の絵は、贖宥状販売の様子を描きながら、贖宥状の販売を批判した1520年刊の木版画です。左側中央部で1人の修道士が贖宥状を手渡しています。右手では代金の受け渡しが行われています。左手前の婦人達は、購入の順番を待っているようです。 問題は、画面上方左は、明らかに法王の紋章で、右は時の教皇レオ10世の生家のメディチ家の紋章です。その中央にある十字架にご注目ください。十字架に架けられたイエスの手足を打ち抜いていた釘のあとが残っています。しかし、そこにあるべきイエスの姿が消えてしまっています。 もう事情は明らかです。俗物教皇の下で、贖宥状販売という金儲けに夢中になっている教会の堕落、そういう教会に愛想をつかしてしまったイエス・キリストは、どこかに姿を隠してしまわれたのだ。これがこの版画のメッセージでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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