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April 29, 2007
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テーマ:Jazz(1967)
カテゴリ:Musician
デューク・エリントンは、ジャズのビッグ・バンド「デューク・エリントン楽団(オーケストラ)」のバンド・リーダーで、
ジャズ・ピアニスト、アレンジャーとしてだけではなく、作曲家としても、たくさんの曲を世に送り出した、
アメリカのジャズ、音楽界を代表する偉大なアーティストです。

デューク・エリントン楽団のテーマ曲である「Take The "A" Train(A列車で行こう)」は、
日本で最もよく知られているジャズ・スタンダード・ナンバーのうちの一つでしょう。
「Satin Doll (サテン・ドール)」、「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)(スウィングしなけりゃ意味ないね)」など、
多くのスタンダード・ナンバーがデューク・エリントン楽団から生まれ、広く愛され続けています。

Duke Ellington

●デューク・エリントン(Duke Ellington)

本名:エドワード・ケネディー・エリントン(Edward Kennedy Ellington)
1899年4月29日、アメリカ、ワシントンD.C.生まれ。
1974年5月24日、ニューヨークで死去。75歳。

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デューク・エリントンは、本名をエドワード・ケネディー・エリントンといい、
1899年4月29日に、ホワイトハウスの黒人執事の息子として、ワシントンD.C.で生まれます。
黒人上層階級の家庭に生まれた影響からか、幼いころから立ち振る舞いがスマートであったことから、
「デューク=公爵」というあだ名がつけられたそうです。

デュークの父親は彼をアーティストにしたいと願い、デュークは7歳の頃からクラシックピアノを学び、
一方で絵の勉強もし、高校時代にはポスターコンクールで賞をとったこともあったといいます。
作曲は10代のころから取り組んでいて、高校時代にはジャズに夢中になり、
18歳で学校を辞めプロとしてワシントンD.C.やニューヨークなど東部のあちこちで演奏し、
また、レビューのための作曲もするようになりました。
1917年、日本は大正6年のことです。

デューク・エリントンの音楽はニューヨークのハーレムによって確立されたといえます。
それは、「コットン・クラブ」と「ハーレム・ルネサンス」です。

デュークは1927年12月からハーレムの「コットン・クラブ」という有名な高級ナイトクラブの
専属バンド(ハウス・バンド)になることによって、
ここを拠点として活動し、彼は名声を確立することになりました。
専属バンドの話は、始めキング・オリヴァー楽団に持ちかけられましたが、
お金のことで折り合いがつかずにオリヴァーが断ったために、
急遽、エリントン楽団が専属バンドになったといいます。
日本は昭和2年のことです。

このクラブでは毎夜豪華なショーがくりひろげられ、ダンサーたちが踊り、タップ・ダンスも見られました。
エリントン楽団は、ミュートを多用したりするなどして「ジャングル・スタイル」という演奏スタイルを作り出し、
エリントンが作った曲などの新しい曲も、次々と、このステージから生まれていきました。

1920年代は「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる時期で、ハーレムから、黒人音楽のジャズだけでなく、
黒人文学や黒人芸能のダンスやミュージカルも栄え、
これらがお互いに影響し合いながら、より大きい総合的な黒人芸術を生み出している時でした。
そのため、デューク・エリントンは歌もダンスも好きで、バンドに歌も取り入れていき、
ミュージカルなど、歌の曲も書いています。
彼の偉大なところは総合的な黒人音楽や芸術を追求したところにあったともいえるでしょう。
デュークの音楽は常に黒人文化をテーマにしたもので、人種差別が激しいアメリカの中で、
「黒人として生きるとはどういうことか」ということを音楽を通して訴え続けていたといいます。

また、彼の作曲、編曲は画期的なものでした。
ジャズにおいては作曲とジャズの本質であるアドリブ(即興演奏)とは、
ある意味、相反する存在であるといえます。
作曲、編曲においてしっかりとした譜面にしてしまうと、
アドリブが制約されてジャズの本質である創造性が失なわれてしまいますが、
逆に自由にアドリブを許すような曲作りをすると作曲や編曲の意味がなくなってしまいます。
そこで、デュークはソロ・プレイヤーのアドリブを生かすような形で作曲することによって、
アドリブと曲が両立するという、ジャズの本質を生かした演奏ができるようにしました。
バンドのメンバー、それぞれの才能や音色を最大限に引き出す形の曲作りをしたのです。
このことで、自己のバンドによって「曲を作りあげる」という、
総合的パフォーマンス・アートとしての形でジャズを完成させたアーティストといえるでしょう。
デューク・エリントンは「バンドが私の楽器だ」と語っていたといいますが、まさにそういうことです。

1931年2月にコットン・クラブを辞め、それからはツアー・バンドとして活動していきます。
そして、アメリカの恐慌期を、ヨーロッパ・ツアーへ出ることで乗り切りました。
1930年代、エリントン楽団は順調に発展していき、
「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)(スウィングしなけりゃ意味ないね)」などのヒット曲が生まれます。
1930年代末には、後に「Take The "A" Train(A列車で行こう)」などを作曲し、
編曲やピアニストとしてデュークの片腕となる、ビリー・ストレイホーンが入団します。
それに続き天才ベーシストのジミー・ブラントン、テナー・サックスのベン・ウェブスターが入団して、
ジョニー・ホッジス、クーティー・ウイリアムらが共に在籍していた1940年代前半は、
デューク・エリントン楽団の絶頂期となりました。

しかし、戦争が終わり1946年になるとビッグ・バンドは経営難のために相次いで解散し、
ジャズの「スウィング時代」は終わりを迎えます。
エリントン楽団は世界各国をツアーして周り、その演奏スタイルはモダン・ジャズに適応していきます。
1960年代は映画音楽やフランク・シナトラとの共演したり、『極東組曲』といったアルバムを出すなど、
広く音楽活動を続けていきました。

彼は黒人としては珍しく、構成のしっかりした大作をたくさん書いています。
その作品は組曲やシンフォニックな曲、バレー曲、ミュージカル、映画音楽、
ドラマ的な曲、宗教的な曲など実に多岐にわたっています。

このように、彼は、優れたピアニストであるだけではなく、
作曲家としても、またバンド・リーダーとしても精力的に活動をしていました。
ファンク・ミュージシャンのジェームス・ブラウンは、デューク・エリントンのことを、
「音楽業界一の働き者」と語っていたというほど、彼の仕事熱心ぶりは有名で、
彼自身「週に7日働くよ」と言っていたというように、
車の中でもホテルでも、少しでも時間があると作曲に専念していたといいます。
そして彼は、生涯に作曲した曲は2000曲以上とも3000曲以上ともいわれています。
また、デューク・エリントン楽団には優れたメンバーが在籍しており、
デュークやメンバーが持ち寄ったモチーフをメンバーが膨らませ、
それをデュークがまとめるという、メンバーと共に音楽を作るということを大切にしてきました。
そのため、作曲の印税などをバンドの運営費用に充てるといったことをして、
彼らが満足してバンドに在籍できるように心がけていたそうです。

そんな人柄や、おしゃれなセンス、ウイットに富んだ会話などから彼に敬意を表して、
周りの人たちから、音楽界においても「デューク=公爵」と呼ばれてきました。
彼は子供の時から生涯「デューク」だったのです。
ソウル・ミュージシャンのスティーヴィー・ワンダーも、彼を称えて「サー・デューク」という曲を書いています。

デューク・エリントンは、じつに自由で柔軟な考え方をしていたようです。
ある時、ジャズを定義してほしいと言われて、
「この世には2種類の音楽しかない。それは良い音楽と悪い音楽だ」と答えたそうです。
ジャズがどうのこうのといったような、ジャンルにとらわれた考えは持ち合わせていないということでしょう。

彼のバンド「デューク・エリントン楽団」からは、いくつものスタンダード・ナンバーが生まれており、
それらの曲は、いつまでも演奏され、歌い続けられていくことでしょう。
デューク・エリントンがジャズのみならず、音楽シーンに与えた影響は絶大なものといえます。

1974年5月24日に、ニューヨークで、75年の生涯を閉じました。

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デューク・エリントンは、1928年6月にエドナ・トムスンと結婚し、
1919年11月3日にマーサー・エリントンが生まれました。
デュークが1974年5月24日に亡くなると、マーサーがバンドを引き継ぎますが、
マーサーも1996年2月8日に亡くなり、
現在はマーサーの息子のポール・マーサー・エリントンがバンド・リーダーを務めています。

妻のエドナはガンのため、1967年1月に他界しました。
デュークは1938年の春から亡くなる1974年までの36年間、
リース・イヴィ・エリスという美しい女性と一緒に暮らしていました。
この間にもデュークはいくつもの女性関係がありますが、イヴィは変わらず彼につくすのでした。
しかし、デュークは妻のエドナと別れることはしませんでした。

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●デューク・エリントン、デューク・エリントン楽団の代表曲

Mood Indigo (1931)

Sophisticated Lady (1933)

It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing) 【スウィングしなけりゃ意味ないね】 (1934)

Solitude (1934)

In A Sentimental Mood (1935)

Caravan (1937)

In A Mellow Tone (1940)

Cotton Tail (1940)

Take The "A" Train 【A列車で行こう】 (1941) [Billy Strayhorn] 

C-Jam Blues (Duke's Place) (1942)

Perdido (Lost) (1942)

Don't Get Around Much Anymore (1942)

Do Nothin' Till You Hear From Me (1943)

Just Squeeze Me (But Don't Tease Me) (1946)

Lush Life (1949) [Billy Strayhorn]

Satin Doll (1953、1958) [with Billy Strayhorn]

Black And Tan Fautasy 【黒と茶の幻想】 (1972)

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Last updated  April 29, 2007 07:24:37 AM
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