禅とは何か
●仏教における禅 仏教の根本は「戒」「禅」「智」であるとされる。戒律を守り、精神を整え、智恵を蓄える。それらのうち、「戒」に特化した宗派や、「智」の深化を目指した宗派が生まれることとなる。そして「禅」を重んじる一派が生じた。それが中国から日本に伝わり、現在では世界の「禅」の中心が日本になっているわけである。 悟りを得た釈迦が臨終に際して弟子に遺した言葉が「遺教経」に載せられている。その中に、目覚めて悟るための八つの条件が示されている。小欲…ここにないものをむやみに求めないこと知足…あるもので足るを知ること。楽寂静…静かな場所で落ち着くこと勤精進…努力すること不妄念…ぼーっとしないこと修禅定…坐禅に打ち込むこと修智慧…智慧を実践すること不戯論…固定概念を超えること この六番目に坐禅に打ち込み、心を整えることが示されている。つまり、仏教のスタート時点で、すでに前についての萌芽があり、禅は全ての仏教に含まれているものなのである。決して、達磨と呼ばれた人物のオリジナルではないのである。●日本仏教における禅 日本の仏教は鎌倉時代にほぼ各派が出揃ったと考えてよい。日本仏教はその後の動乱を経て、大局的には、2つの系譜に分かれたように見受けられる。禅系……上流階級、武士階級 学び修行し己を鍛える念仏系…庶民 易行の励行により極楽往生を願う この2派は、自力と他力というキーワードで理解されることがあるが、それは正しくない。仏教はそもそもが、個人として修行して悟りを得ることが目的である。超人的な存在にすがればよいことがあるという考えは、そもそも仏教ではない。では念仏系は仏教ではないのか。 浄土真宗などの念仏系の仏教は、次のように考えるべきである。すなわち、この世は毎日の暮らしに忙しく、修行する時間もない。浄土という素晴らしいところに生まれ変わったのちに修行し、悟りを得よう。つまり、悟りを得るという点では禅も念仏も同じであり、そうでなければ仏教でなくなってしまうのである。●リーダーと禅 禅が上流階級や支配階層に浸透したため、中世以降の歴史の表舞台に登場する仏教は、そのほとんどか禅である。金閣寺や銀閣寺、華道や茶道、一休や利休や沢庵、金地院崇伝などなど、全て禅系である。現在でも、政治家や経営者が救いを求める先は、念仏系ではなく、多くが禅系である。例えば、第一次安倍内閣が崩壊した半年後に、安倍晋三氏が向かった先は、臨済宗の禅寺「全生庵」である。全生庵の座禅会には、中曽根元総理大臣も参加していた。 最近では、アップルの創始者のひとりであるスティーブ・ジョブズが禅に帰依していたことが話題となり、関係著作が若者にも多く読まれている。欧米諸国には、「禅センター」が各地にでき、その多くが曹洞宗大本山「永平寺」とのつながりを持っている。21世紀になり、情報産業や遺伝子工学、人工知能などが急速に世界を変えつつある今、なぜ禅が求められているのであろうか。●現代社会と禅 その理由の一つは、以下のような禅の「無宗教性」にあると思われる。 ・禅には崇拝する対象としての神はいない。 ・禅には理念的な根本を示した経典がない。 ・禅は教団よりも個人の生き方を優先する。 さらにいうと、禅は否定の宗教ではなく、肯定の宗教であるという点が、民族を超えて受け入れられていると考えられる。例えば、禅には崇拝する対象としての神はいないが、神を否定してはいない。肯定もしない。いてもいいし、いなくてもいいい。どちらでもいい、という立場をとる。その何物にも縛られない自由への指向性が、IT時代のトップエリートにも受け入れやすいのであろう。 もう一つの特色は、理論よりも体験を重視するという点である。禅は、大切な経典を学ぶことよりも、坐禅や奉仕作業などの実践を重視する。宗教的体験によって、一人ひとりが、一人ひとりの反省、気づき、そして悟りを得ることを勧めている。だから欧米には、キリスト教徒であり続けながら、禅センターに坐禅に通う人も多くいるのである。●科学と宗教 近代以降、科学と宗教の共存が議論されてきた。欧米では、いまだに科学の進歩は、偉大なる神の再発見であり、神の神秘に近づくことであるという納得のされ方が根強く残っている。その一方で、禅のように具象を超越する気づきを、体験から得ようとする動きが次第に広まってきている。新しい神秘主義の展開とでもいえるかもしれない。 西洋の科学は、二元論をベースとしている。対象を細分化し、イエスかノーかで切り分けていく。そこから得られた知見を再構築することで、地球や人間を理解しようとしてきた。そして文明を発展させ、世界を変えてきた。 しかし禅は、その二元論を超えた境地を重視する。つまり、イエスかノーかが大切なのではなく、イエスであろうがノーであろうが、そんなものより大切なものに気づこうという考え方である。しかもそれを、シンプルな宗教的体験から体得しようとするのである。 シンプルな宗教的体験の典型は坐禅であるが、それに限らず、料理やウォーキングなど、一心不乱に取り組むことも坐禅以上に重要な体験になるかもしれないと認めている。そして世界的な大企業が、進んでその宗教的体験を企業活動の中に取り入れる動きさえ見られるようになった。それが、グーグルやアップルなどがとりいれている「マインドフルネス」である。●禅とマインドフルネスの違い マインドフルネスの目的は、瞑想による精神安定や集中力の向上である。禅との違いは何か。それは、目的の有無である。両方ともに、同じように座禅を組んだりするが、根本的にはちがう。禅は、坐禅において目的をもたない。ただ座るのである。ある禅僧は、それをこのように言う。「人が座るのではない。坐禅が座禅をしている、そのように座るのである」 マインドフルネスが何かを求めて座るのに対して、禅は何かを捨てるために座るのである。捨てて無になるために座るのである。禅ウォークは、ただ歩くのであって、ダイエットのためとか筋力アップを目的にすれば、それはただのウォーキングである。●新しい時代における禅 これからの時代に禅が注目されることは、日本人として、あるいは永平寺のある福井県人として、大変光栄なことである。願わくは、正しく禅を理解しようという気持ちを持っていただきたい、仏教の本質をシンプルに理解していただきたいと願うばかりである。名前だけの日本料理店のようには、なってほしくない。 禅の広がりが、宗派を超え、民族や文明の壁を超え、変化の激しい世界を生き抜く、インテリジェントのひとつとして認められることを願っている。