おのずから・みずから・・・やまと言葉の倫理学7
庭にツグミが現われ、シジュウカラが高らかに鳴いている。2、3日前にはジョウビタキが来ていた。豪雪地帯の人たちのご苦労を思いつつも、確かな春の足音を感じる。 「おのずから」 「みずから」就職や移動のあいさつ状にある、「・・・ことになりました」という表現。就職や引っ越し、あるいは結婚といったような、人生の節目の出来事において、 われわれはたしかにそういう言葉遣いをする。「就職することにしました」 ではなく、 「・・・ことになりました」 いかに当人「みずから」の意志や努力で決断、実行したことであっても、どこか、それは「おのずから」そう"なったのだ"とする受けとめ方があるということが示されている。 「できる」 もともと「出来る・でくる」である。ものごとが可能になるのは、「みずから」の主体的な努力や作為によるとするよりも、「おのずから」そうした結果や成果が成立・出現してきたのだという受けとめ方があったゆえに、「出で来る・いでくる」の意味が「できる」という可能の意味をもつようになった。 「お茶を入れました」・・・「お茶が入りました」 「自ら」と書いて「みずから」とも「おのずから」とも読むのは、「みずから」したことと、「おのずから」なったことが、まるっきり別の事柄ではないという発想が、そこにはある。 どうにもならない「おのずから」の働きでなりゆくのであって、「みずから」にはどうすることもできない、したがってまた責任もとりえないといった考え方も生まれてくることもある。 ・・・「責任を取らない」官僚・代議士・電力会社・ひと。。(,,-_-) 「結婚することになりました」離婚することになりました」・・・当事者不在の意味合いも・・・ すべてそうした無責任な成り行き主義で語られているのかというと、 必ずしもそういうわけではない。 どんなに「みずから」努力しても、結婚する相手に出会うということは別事である。自分を超えた、自分の手の及ばない不思議な働き、縁とか偶然とは、回りの手助けとか、そういうもののなかで、人は人と出会うのであるし、その後もさまざまな働きや出来事のさきで、やっと結婚という事態にいたるのである。 「結婚することになりました」とは、そういう感受性の表現でもある。 日本の文化や芸術に独自にある、ひかえめながら、しなやかで、かつ繊細・幽玄な表現を育てたともいえる。 人生やこの世のもろもろの出来事というのは、単に「おのずから」の働きだけではなく、また、かといってむろん、単に「みずから」の営みだけでもなく、まさにその両方のせめぎあう「あわい(あいだ)」においてこそ起きているのだ、という祖先の大事な知恵を読みとることができるように思う。・・・このくまわりくどい言い回しも、日本独自の感受性の賜物。。^^; 見るべき程の事は見つ。 今は自害せん。・・・壇ノ浦での平家滅亡に際しての平知盛の辞世の言葉・・・「見つ」とは、最後の最後まで戦ってきた「みずから」の奮闘の総括であると同時に、そうならざるを得なかった「おのずから」の運命の承認であったということを表している。 以前日記に 「おのずから」 と題して書いたことがある。 おのずから2・・・「ありがとう」 おのずから・・・「ありがとう」考2 日本に生まれ育つということは、日本語ということばに宿る 感性や発想に おのずと染まっていく、身震いするほどに。。そういうことなんだな~ 外国から入ってきた言葉や概念、手法といったものが、日本という土壌で理解され、馴染んでいく時に越えなければならない壁、いや越えがたいと言った方が良いほどの壁、以前から感じてはいたものの、その一角が ガガ~ンと目の前に。