八戸三社大祭 江戸時代2
では編年表より深堀してみたいと思います。享保5年 明年から法霊御神輿の長者山御旅出許可となる(1720) 「八戸藩目付所日記」からですが、今回は「法霊大明神」についてです。八戸三社大祭文化財報告書 第二章 1.八戸御館神としての法霊大明神 より抜粋内丸2丁目にあるおがみ神社は旧号を法霊大明神と唱えてあった。昔は、八戸城の内北の方、三つの木のあるとこと、大工小屋のあたりであった。ここを住古は柏崎といい、または宮台、都台とも書いた。勘定所前井戸のあった所に大きな沼があり、この沼には大蛇が住んでいたという。 (神社調 弐冊之一」八戸市立図書館所蔵)元来、法霊大明神は龍神であり、水の神であることから、稲作に伴う農耕神でもあったわけで、より古い段階では柏崎村の産土神として祀られていたものであろう。社の名は法霊という山伏に由来する。法霊が年々五穀成就、日和乞、または雨乞など、何でも祈念すると、感応があり霊験あらたかであったため、人々の信仰が厚かった。ある時雨乞をした。念を入れて心をこめて祈ったが何のしるしもなかった。そこで、ついに彼は社地の池に身を投げた。死んだ後から雨が続き、五穀は豊かに稔った。年ごとに秋の収穫が続き、いろいろな願いが聞きとどけられないことがなかった。それをあがめて法霊大明神として勧請したという。 ((鈴木堯子 「附録伝記」1988年 種市町立図書館(現洋野町))) 八戸三社大祭文化財報告書には上記記述がありました。私の祖母は「おがみ神社」を法霊さんと呼んでいましたし、親戚のおばちゃんやおじちゃんも同様でした。山伏であることは、以前から知ってはいましたが、改めて再認識しました。おがみ神社さんの祭神は「たかおがみ神」と「法霊大明神」とされ両神は水神で竜神も祀られていると聞いております。しかし、気になるのは「沼」です。いったいどこにあったのでしょうか?まさか、現在の長根リンクの場所なんでしょうか?長根リンクの場所は、昔、大きな池で埋め立てたといわれてますが、そこなんでしょうか?機会があったら調べてみたいと思います。八戸三社大祭の起源とされるおがみ神社。法霊大明神として祀られ経緯が、この記述から理解することが出来ました。先人は豊作祈願や病気などを願っていたのでしょう。そう感じると「生きる為」という言葉が出てくるのでした。次回は その時代の背景について投稿したいと思います。時に江戸時代。その時代の八戸はどのような統治であったのでしょうか?そこから、紐解いてみたいと思います。※八戸市教育委員会 文化課さんから、 八戸三社大祭文化財報告書についての記述の許可を頂いてますので、 転用または複製はしないように、お願い申し上げます。