カテゴリ:吉雄のつれづれ
涙は枯れることはないのか?
水分が出尽くすことはないのか? 泣いたらなんでこんな凄い顔になるのだ? という疑問がわいた昨今。 後悔でも哀れみでもない、ただハラハラと落ちる涙を 流れるままにしていた。 多分ここ3ヶ月ぐらいはまともに人間として機能していなかった。 凄い顔も板についてきた。 道を歩くとき、通りすがる人は私の「通常の顔」を知らないから 鼻が赤いだけで、気にも留めないだろうと開き直って歩いていた。 思いがけず早々に、予想されていた事態が起こって 本格的に日常が機能しない状態から復活しなければならなくなった。 母と親友のbabuの猫達が使ってくれたらと パーパスが日常使っていた消耗品などを それぞれに袋に詰めて、悼みわけとして送り 大事な彼女(猫)が亡くなったことをブログに書き 友人にもちょっと話してみたりした。 異物を飲む作業のようなものだ。 友人からメールが届いて、 その中に「虹の橋という詩を読んでみてください。泣けますよ。」 という文章があった。 悲しみの涙から、希望の涙に変わる詩であるらしい。 同じくしてブログのレスにアルテアさんが同じ「虹の橋」のことを 書いてくれていたので、それには少し驚きました。 メジャーな詩なのですね。 調べてみたら、インディアンの詩“らしい”という ネットなどで広く知られている作者不明の詩であるらしい。 動物愛護などのサイトでも見かけていたので その詩は知っているのだけれど、 「泣けますよ」という文章にとても引っかかってしまった。 泣きたいわけでは無いからね・・・ 確かに彼女が去って寂しい。 しかし、絶望しているわけでも、悲しみに暮れているわけでもない。 もう撫でることのできない小さい彼女を思い出すと涙が出て、 それは明確に「寂しい」という、シンプルな感情では無いような もっと混沌とした、もっと漠然とした涙だったりする。 そしてそれを止めるすべを知らず 無理に止めようとも思わないのだけれど 「泣けますよ」 という文に、なんだか涙を止められる。 なんだか、天邪鬼な私は泣けといわれると、泣けなくなるようだ。 日常を取り戻せるかもしれない。 「泣けますよ」に、ムッとして、日常が戻るのもどうかともおもう。 その文を送ってくれた彼には、 「詩を教えてくれてありがとう」それだけ書いて送ればいいものを、 丁寧に「ありがとう」という感謝の意と、その詩では癒されないし頂けない。 前の雑記のレス中にも書いた、「虹の橋で待ってもらいたくない」 というメンドクサイことこの上ない返事を もっと長々と書いて返信した。(八つ当たりじゃないよ) そんな、大人気ない文を送れる、それが私の日常でもあるのだろう。 何はともあれ「虹の橋」という詩に 少し我に返されたという感じではある。 トイレと爪とぎ、お水を片付けられないけれど まだまだ、涙は落ちるけれど、大丈夫。 心配かけてごめん。 色々ありがとう。 パーパス、私と14年一緒にいてくれてありがとう。 おかげでいろんな事に気がついたのよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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