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カテゴリ:生き方
人生の違人とは、年をとっていくことに楽しみを見つけられる人である。
人生の違人とは、健康と長寿を保つ人である。 人生の違人とは、他人から見たら過酷な人生でも、幸せを見つけられる人である。 人生の違人とは、仕事人間ではなく自分の仕事を楽しむ人である。 人生の違人とは、自分の人生を振り返ったときそこに不満がない。 人生の違人とは、自埼を受け入れ、自分を肯定し、自分に安んずる人である。 人生の違人とは、自分のいのちを喜ばせることができる人である。 年をとることのメリット 考察その1 一体、年をとることのメリットは何かと問われて、すぐに答えられる人が何人いるだろうか。せいぜい、年をとるのも悪くないというくらいまでは言えても、メリットがあるとはなかなか断定しがたい。シワが増えたり、足腰が弱ったり、物忘れが多くなり、新しいことがなかなか覚えられなくなったことなどに気づき始めても、それを上回るメリットにはなかなか気付かない。それより何より、年をとるメリットということを真剣に考えている人がいるだろうかという問題がある。 年をとるということの肉体的、医学的検証は詳しくなされても、そういう情報は結局老化現象のメカニズムを詳しく知るだけのことで、年をとることの有利さとか、加齢により達成されることについては関心も示されず、研究もされずにいる。それはもう、あまりにも最初から年をとることはよくないこと、肉体的に衰えていくことは悲しいことという前提に立ちすぎているからで、そんな常識を打破すべき学者や研究者の怠慢のそしりは免れない。ということで、現在日本では、年をとることのメリットについて言及している人は、ほんの一握りの個人でしかない。しかもそれも特別のユーモア感覚で表現されたものしか、世間の耳目も集まらないのである。 その達人といえる人たちの中の一人である、雑誌「太陽」元・編集長の嵐山光三郎氏は、年をとるメリットについて、こう語る。 「世間では年をとるに連れて人生は下り坂と称するけれど、目の前の坂道しか見えず苦しい思いで登る上り坂より、遠くの景色まで広々と見渡しながら下り坂を降りていくのは楽だし気持がいい。自転車で登った坂道なら、下るのにペダルを漕ぐこともないからもっと楽チンである」。まさに氏らしい卓見である。もう一人、「老人力」というパワーを見つけて普及活動を行っている、赤瀬川原平氏がいる。氏が唱える「老人力」というのは、人々が会話の中で、「えーと、あれあれ」とか、「ほらあれだれだっけ」というように、内容は分かっていても言葉が出てこないという現象が始まったときからついてくる力を言うのだそうである。この力は何に効くかというと、赤瀬川氏曰くには、「たとえばプロ野球選手でも老人力が欠けているのはなかなか一軍には上がれない。プ口野球選手になるくらいの人は、みんな体力がある。ふつう以上に体力をつけた人でないと、プロ野球選手にはなれない。しかし、たとえば試合中、二死満塁の場面、監督がタイムをとって出て来てパッターの肩に手をかけて、(力を抜いて行け)と言ったりする。力をつけにつけて、やっとプロ野球選手になったのに、ここへ来て、力を抜けといわれる。 でも事実はそういうことで、力を抜かずにリキんで打って内野フライ、万事窮すというところが、うまく力を抜いて打ったら、走者一掃の三塁打、ということがあるのである。力を抜くには抜く力がいるもので、老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける。つまりプロ野球選手は意識して老人力を先取りする必要があるわけで、だから監督が出て来てバッターを呼び寄せて耳許で何か一言うのは、あれはじつは(老人力で行け)と言っているのだ」(ちくま文庫『老人力』より)なるほど、恐るべし老人力である。 見事に年齢を重ねる 者察その2 先に「老人力」について説明したが、これは物忘れなどの現象が起き始めたときに、老化ということから目を離さないできちんと自覚すれば、誰でも自ずとつく力のようである。しかし、年をとることをメリットとする考え方は、まだ他にもある。弟がいくら年をとっても兄の年を越せないように、年をとるということは年をとっていない人より、絶対的に過去の時間が長いというのは事実である。これは明らかに年寄りの方が優位に立つことである。 よく、年をとっても好奇心を忘れず、新しいことに挑戦して感性を豊かに保つことが心の老いを防ぐことであるなどと言われるが、しかしこれはかなり矛盾した話ではないだろうか。年齢を重ねていくということは、それ自体常に新しいことを経験しいているという事である。昨日と同じ今日はない。それは若い人にとっても年をとっている人にとっても同じことである。新しい出来事に心ときめくことが若々しい感性であるならば、より多く生きている人間の心は、若者よりずっと瑞々しく、豊かな感性が育まれているはずである。 「年のせいか、やることが億劫になって、やらなくなったことがある」と、作家の中野孝次氏は著書の中で書いている。これぞ老いの心と言うかもしれないが、それは「したいことだけして、したくないことはしない」という心のことであり、「世の中にはするよりもしないほうが風情のあることがあるのだ」と続く。 こういう物事の捉え方は繊細な境である。そして中野氏は、若い頃から外国文学研究者として翻訳や文学の研究を続けてきたが、その長い時間のかけ方が、「会社勤めの人であれば定年が見える五十代になって、これぞと自分の言葉と自信をもって自分の書いたものを頷けるようになった」と、語っている。 それはあたかも「人より晩生である」かのような書き方ではあるが、そこには長い年月をかけたからこそ得られた果実に対する満足心と、その先に続く充実した日々に対する喜びが感じられる。年を経るからこそ得られる心境は他にもある。 「生きて今あることは何よりの宝」と兼好法師は『徒然草』の中で、死の近いことを自覚してこそ生の味わいは深くなると言っている。死という限定されたものがあって、はじめて生きて今あるということが第一の宝になるというのである。若い人に「死」というものを考えろといっても、現代では特に具体的な死に触れる機会がないので、想像することはおろか畏れさえ知らない。従って、生きて今あることが楽しくてたまらないというような人間にはめったにお目にかかれず、みんなつまらなそうに生きている。 しかし、いくら死に対する畏れがなかった人間でも、だんだん年をとってくれば、否応なしに死というものを意識せざるを得なくなる。結局はそこから本当の自分の人生が始まるのである。赤瀬川原平氏も、年をとることで自分の力の限界が見え、そうすると小さな楽しみが切実に感じられてくると書いている。そして、「力の限界を知って、その限界内で何事かを始めると、その限界内の世界が無限に広がってくる」とも言っているのである。 肉体が老化していくから、心も老いていくと一方的に思い込んでいるのは、まったくおかしな話である。年を重ねれば重ねるほど、その心は澄み切って感性豊かになっていくのが常識であると考えることは、決して強引でも負け惜しみでもないと思うが、いかがであろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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