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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年04月02日
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カテゴリ:学一般
(11)学問の構築には意志の強さ、素直さ、身体的強靭さが必要である

 今回取り上げるのは、井上真紀先生による小説である。前号で初めて小説が掲載されることになったが、今回も「悟りへの道を考える」ための内容が展開されている。

 以下、本小説の著者名・タイトルである。(今回はリード文はない。)

井上真紀
青頭巾―『雨月物語』より(上)
―悟りへの道を考える(2)


 本小説のあらすじは以下の通りである。

 諸国を回遊している老僧西庵は、一夜の宿を借りようと山道を下りた小さな村に立ち寄った。そこではどういうわけか、西庵のことを「山の鬼が下りてきた」と子どもたちが口々にわめくのである。村長の家に泊めてもらうことになった西庵は、雨の降る中、昔を思い出しながら眠りについた。だが、まだ周囲が闇に包まれている頃にふと目を覚まし、微かな人の気配を感じる。そこには少女と見紛うほどの美少年がいて、私のお師匠様を救ってくださいと言うなり、煙のように消えてしまったのである。翌朝、家の主にこの件を話すと、その稚児に心当たりがあるようで、次のように語り出したのである。―この村の上野山に一堂の寺があり、その住職はまだ若いながら学問を修め有徳であった。先年の秋、他国から1人の美しい少年を侍童として連れ帰ってから、高潔だった住職が一変した。この稚児を臥床でも寵愛し、住職としての勤めも怠りがちになったのである。弟子も1人、2人と寺を離れていったある日、ふとしたことから少年が病の床についてしまったのである。住職は悲しみ、つききりで看病したが、少年は亡くなってしまう。それでも住職は少年を火葬にも土葬にもせず、離れようとせず、少年の身体を愛撫していた。やがてその身体は腐敗しすさまじい臭気が寺中に満ちてきたある日、とうとう住職の心の中で何かの糸が切れたのか。住職は腐敗した少年の身体を、腹のあたりから喰い始めたのである。この様子を目撃した僧を始め、わずかに残っていた者は、その夜のうちにみな逃げ出したのであった。―このように話した主は、西庵に住職が本当に鬼と化したのか確かめてくれと頼み、西庵はこれを引き受けたのであった。昼過ぎに寺の門をくぐり、本堂に足を踏み入れた西庵に、背後から「何をしている」という鋭い声がかかる。三十過ぎの青年僧が堂々とした風采でこちらを睨んでいるのである。住職だという彼に一夜の宿を求める西庵は、初めは断られながらも、雨が降りそうな空模様に再度願い出て、「好きにするがよい」と言い捨てられる。去っていくその住職の足元には、影が、落ちていない。西庵はご本尊の前で座禅を組み目を閉じる。

 この小説に関してまず触れておきたいことは、主人公たる西庵の経歴についてである。西庵は十五、六の頃から、都のさる貴人の邸に侍として仕えていて、武芸をよくし、率直で爽やかな性格だったようである。ところが、二十三の時、不意に仕事も財も、娶わせてくれた妻も子もかなぐり捨てて出家し、都の近くの国々から始めて、東の国、陸奥の国をはじめ、諸国を回遊してきたというのである。出家した理由については、主人に対しても「言うわけにはいかなかった」(p.169)と意味深な語り口であるが、いずれにせよ、「身を風雨にさらして歩き回らずにはいられない、抑えつけていては暴れだしそうな何物かを心に抱えていた」(同上)からこそ、一所にとどまることができなかったようである。「長い旅の道中には、幾度も危うい目に遭ったことがある。が、持ち前の度胸と昔鍛えた腕で切り抜けてきた」(p.170)とあるように、六十に近いにもかかわらず、「年の割には筋骨たくましく、足腰も確かで、背筋がぴんと伸びている」ということであった。こうした経験があるからこそ、村の者たちが恐れる鬼が実在するかどうかを確かめてくる役目を引き受けたのである。

 このような西庵の生き方から、我々は何を学ぶべきであろうか。特に、学問を志す我々京都弁証法認識論研究会は何を掬い取るべきであろうか。それは、これと道を決めたからには決して脇道に逸れることなく、一途に歩んでいくという意志の強さ、しかしその反面、他人に対しても率直であり、自分を飾らない「素直」(p.168)さ、そしてこうした認識面を支える身体的な強靭さ、ということになるのではないだろうか。学問の道を歩んでいくためには、強烈な覚悟が必要であって、自分の弱さに負けないような意志が必須である。しかしそれは、自分の実力に下駄をはかせ、見栄を張るような傲慢さになってしまってはダメである。自分の実力をしっかりと見定め、自分の殻を打ち破って、自分を否定して、頭脳活動を発展させていく必要があるのである。しかも、こうした研鑽の過程は、一朝一夕になせるものでは決してなく、時には無理をしながらも、自分の限界を超える必要があり、しかもそれを全人生をかけて継続し続けていかなければならないのである。そのため、実体としての身体の実力、体力を養成しておくことも、学問構築にとっての必須の条件である。西庵の今に至るまでを含めた人生から、こうしたことを学び取らなければならないのではないだろうか。

 さて、この小説に関してはほかにも取り上げたい箇所がある。それは西庵に歌の手ほどきをした主人の言葉についてである。少し長いが引用しておく。

「空に月が輝き、地には花が舞う。それを、ただ美しい、と素朴に愛でるのも良いであろう。だがそれでは、その美しさを味わう者はおのれ一人に過ぎない。その美しさを三十一文字に閉じ込めて言い表してみよ。すれば、それを読む者ごとに、眼前にその美しき眺めが繰り広げられ、あるいは歌の力によっては、うつつの景色よりもなお美しきを読む者に味あわせることも可能であろう。そして佳き歌は千載ののちにまで残り、我らの命は尽きようとも、歌の命は永遠となる。歌とは誠に素晴らしきものではないか」(p.169)


 ここで語られていることは、一度きりの美しい体験を五七五七七という短い言葉に閉じ込めることによって、その経験を誰もが時代を超えて味わうことができるという、言語の素晴らしさである。しかしこれは、誰もが簡単に優れた歌を創作できるということではない。自然的対象のうちに「美」を捉え、その像を巧みに文字化する実力が必要なのである。つまり、芸術である歌の世界においても、対象の性質を一般性として(ただしこの場合は「美」という特殊な一般性であるが)把握する実力、すなわち「論理能力」が必要となってくるのであって、それを言語として言い表すという点でも「論理能力」を要するものなのである。芸術を創造する際にも、それを言葉の芸術として創作するのであれば、一見芸術とは対照的なものだと考えられがちな科学的な「論理能力」が必須となるのであって、これは言語と「論理能力」との関係を象徴的に表しているものといえると思う。言語は対象を種類として把握して表現するものであるから、どんな場合にも、対象の性質を一般性として捉えているのである。つまり、言語を話したり書いたりすることは「論理能力」を要する作業だということである。だからこそ、「書くことは考えることである」のであって、書き続けることによってこそ、「論理能力」は高まっていくのである。





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最終更新日  2016年04月04日 10時42分53秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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