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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2018年03月16日
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カテゴリ:言語学
(4)言語の意味と辞書的な意義との違いを問う

 前回は、言語規範とは何かをより構造に分け入って検討していくために、まず規範一般のあり方を具体的に分析していきました。結論的には、規範というものは個人の独自の意志に対立する、社会的な客観的な意志であって、個人の頭の中で、社会的な・客観的な・意志と個人的な・主観的な・意志とが二重化する形で併存していることになるのでした。この規範一般のあり方を踏まえて言語規範について検討していくと、言語の直接の基盤となる認識はいわば生きた・個人的・具体的・認識ですが、言語規範という認識は特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識だと言えるとして、概念の二重化の構造を説明しました。言語表現の際には、言語の直接の基盤となる認識が言語規範を媒介として表現されるという過程が存在するのでした。

 さて今回は、これまでの議論をふまえて言語と言語規範との関係をさらに突っ込んで検討し、言語の意味について考察していきたいと思います。

 まず、本連載第2回で述べたことを思い出してもらいましょう。ここでは、言語規範というのは、「ある特定の認識の表現には特定の文字や音声を使わなければならないという、また逆に、ある特定の文字や音声を受け取ったら特定の認識を思い浮かべなければならないという、客観的な約束事」であることを説きました。また、電車の運行を例にとって説明した中で、「電車の時刻表は、この規範を誰の目にも明らかな形に表現したものだ」とも説きました。一体何がいいたいのかというと、では、言語規範を「誰の目にも明らかな形に表現したもの」はないのかということです。それがあるのです。皆さんがよく知っているものです。

 そうです。言語規範を目に見える形にしたもの、それは辞書です。本連載第1回でも、「犬」という言語の意味を辞書で調べて、犬とは「1 食肉目イヌ科の哺乳類。嗅覚・聴覚が鋭く、古くから猟犬・番犬・牧畜犬などとして家畜化。多くの品種がつくられ、大きさや体形、毛色などはさまざま。警察犬・軍用犬・盲導犬・競走犬・愛玩犬など用途は広い」などの意味があると説明していましたね。このように、言語規範という目には見えない、頭の中にある認識を「誰の目にも明らかな形に表現したもの」が辞書なのです。

 ではここで、前回の内容を振り返っておきましょう。前回、言語が表現される際の頭の中には、概念が二重に存在する(*)ことを確認しました。念のために引用しておきましょう。

「ここで言語規範について考えてみましょう。言語規範も規範である以上、個人の独自の認識とは相対的に独立した、ある程度固定化された社会的な認識です。つまり、言語として表現される認識と言語規範という認識とは、関係はあるが別個の存在だということになります。言語として表現される認識は個々の言語が成立する直前に認識として成立する、いわば生きた・個人的・具体的・認識ですが、言語規範という認識は、特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識だということになります。

 言語を表現する個人は、「ある特定の認識の表現には特定の文字や音声を使わなければならないという客観的な約束事」という社会的な存在を自身の頭の中に観念的に対象化していて、この言語規範を媒介として、自分の時々に思い描く思いやイメージを言語化するのです。ここに、独自の意志と規範一般との意志の二重化の特殊なあり方として、言語の直接の基盤となる認識と言語規範との概念の二重化が現れてくるのです。」


 ここでは、言語として表現される基となる認識と、言語規範という認識とは別のものであること、言語として表現される認識は諸々に変化する個人的で具体的な認識(から対象の具体的な感覚的なあり方を捨象し、それがどんな種類に属するかという種類としての共通性だけを抽象した概念)であるが、言語規範という認識は固定化された社会的で抽象的な認識(既に概念化されている概念)であるということを説いています。そして、この言語規範である固定化された社会的で抽象的な認識を言葉にしたものが、辞書に収められている、「1 食肉目イヌ科の哺乳類。~」などの意味である、ということです。

 本連載第1回に、「私は犬が飼いたい」とか「私は犬が嫌いだ」と言った場合の「「犬」という言葉の意味は、辞書にあるような意味だと言えるでしょうか」という問いかけをしておきましたが、以上の展開をふまえれば、答は「言葉の意味は、辞書的な意味と関係はあるが、辞書的な意味そのものではない」となります。言語は、確かに言語規範を媒介として表現されるものであるとはいえ、言語の直接の基盤となる認識はあくまでも「いわば生きた・個人的・具体的・認識」が基となっているのであって、言語規範という「対象化された・社会的・抽象的・認識」ではありません。ですから、ある言語の意味というのは、「いわば生きた・個人的・具体的・認識」に関係するものであって、「対象化された・社会的・抽象的・認識」(辞書的な意味)そのものではあり得ないということです。

 こうした問題については、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)の中の記述が大きく参考になります。

「言語の「意味」というときには二つの場合があることになります。一つは、話され書かれた言語の持っている「意味」で、いま一つは辞書の教えてくれる表現上の社会的な約束としての「意味」です。この二つを区別するために、辞書の教えてくれるものを「意義」とよぶことにしましょう。話したり書いたりするときには、社会的な約束に従うのですから、個々の言語はすべて「意義」に相当するものをふくんでいることになります。この「意義」は普遍的・抽象的に対象をとりあげているだけですが、話したり書いたりする場合の対象の認識には、個別的な事物の特殊なありかたが具体的にとらえられていて、いわば「意味」が「意義」に相当するものをふくんでいる状態にあります。」(p.63)


 ここで説かれていることを図式化して言えば、ある言語の意味は意義(辞書的な意味)を中心としてある一定の幅を持った円として描ける、ということになるでしょう。つまり、ある言語の意味というのは、その時々の「いわば生きた・個人的・具体的・認識」に応じて様々に変化し得るものであるけれども、かといって「対象化された・社会的・抽象的・認識」である言語規範が規定する意義からあまりにかけ離れた意味は持つことができない、ということです。それは、言語が言語規範を媒介として表現されるものだからです。

 以上今回は、言語の意味と意義(辞書的な意味)の違いについて、言語表現される際の頭の中にある二重の概念の違いをふまえて説いてきました。言語の意義が「点」であるのに対して、言語の意味は「円」(あるいは「面」)として表すことができるということでした。

(*)概念の二重化という問題については、論理的な把握であるということが重要です。両者を事実的に分けられないことは、「独自の意志」と「観念的に対象化された意志」とを事実的に分けられないことと同様です。「禁酒・禁煙」を貫いているのは、「観念的に対象化された意志」があるからなのか、「独自の意志」の力なのかは、事実としては説明しようがないのです。このことと同様に、言語表現をする際の頭の中に概念が二重化しているかどうかという問題は、事実としては説明できません。ではなぜ、このように「論理的な把握」をする必要があるのでしょうか。詳細な展開は別稿で行うこととして、端的に結論を述べれば、概念の二重化という形で論理的に把握することなしには、言語の可能性が著しく狭められてしまうからだ、となります。言語は既にある素材を使って作るものではなく、共通の像を描けるよう新たに創るものである、ということがヒントとなります。





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最終更新日  2018年03月16日 06時00分18秒
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