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テーマ:落語!&演芸!(1482)
カテゴリ:落語つながり
談志師匠は「粗忽長屋」を「主観長屋」と解釈している。
立川志らく師匠の新刊「雨ン中のらくだ」を読んでいる最中である。 志らく師匠の入門からの軌跡と師匠のネタの解釈とをオーバーラップさせる構成で、談春師匠の「赤めだか」を意識していることは明らかであるが、やはり今までの著作数が物を言って完成度は高いです。 「粗忽長屋」の章では「主観の強い人間は己の生き死にまで分からなくなる」という解釈に行き着いたがゆえに「主観長屋」と言っているとのこと。 私は「主観」の定義がどうしても理解できていなかったのですが、以下にその例が述べられています。少し長いですが引用します。 ”主観の強い人間と言うと、私の母がそうかもしれません。 ~略~わたしがギャンブルなどをやると烈火のごとく怒ります。しかし、自分が競馬にはまると、私に向かって、「あんたは競馬なんかしちゃ駄目だよ。ときにあんたはダービーはとったかい?私は的中したよ」訳がわかりません。酒瓶に水が入っていて、長いことそれを本物の酒だと思って料理に使っていて、あるときそれが水と知ると、「でも知らなきゃお酒なんだから料理に入れようね」こんな人です。 粗忽者と言えばそうなのですが、私はこの母と「粗忽長屋」、いや「主観長屋」の登場人物がだぶるのです。” なんとなく「主観」の定義が分かりましたが、個人的には粗忽長屋の言わんとすることはこのような主観者のことではないと思っています。 ただ、今まであいまいなままに来ていた「主観」がここまできちんと整理されているものにはお目にかかったことがなかったので、個人的にはひとつの結論は得られたと思います。 また、私の談志師匠初体験であった、東西落語研鑽会での「松曳き」が全く理解できていなかった理由も、明確に説明されていました。 そもそも「松曳き」を一度も聞いていない人間には、ハードルが世界記録級の高さであったことが分かりました。 どちらの噺も談志師匠では一度しか聴けていませんので、是非成長した自分を試すためにももう一度聴いて見たいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.15 11:06:45
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