カテゴリ:信仰
写真とお花を出して、ろうそくを灯しました。台の上がちょっとさみしそうだったので、陶器の猫をいくつも並べてしまったのだけれど、右近さん大丈夫かな。(^^;) 近年発見されたという右近さんの歌には、撫子が詠み込まれています。 夕日のかげの大和なでしこ 草枯れのまがきに残る撫子を 別れし秋の形見とも見よ 老いの迫った右近の瞳に、静かに影を映した可憐な撫子を思います。 加賀越前屋片岡家の文書の中に発見されたのだそうです。右近の姪が片岡休庵の妻でした。 金沢に行ったとき図書館を訪ねて、文書をコピーしていただきました。(^^) 大事にとってあります。 「神かわしか」と秀吉に迫られ、領地そのほか全てを返上して身を隠していた右近は、前田利家のはからいで、客将として加賀前田家に召抱えられました。(天正16年、1588) 「禄は軽くとも苦しからず、耶蘇宗の一ヵ寺建立下さらば参るべし」 というのが右近の言葉だったそうです。 その後、家康によって伴天連追放令、右近、内藤如安ら有力キリシタンの身柄拘束の命令が出るまで(慶長18年、1614)金沢に留まりました。 金沢城の修理、堀作り、高岡城縄張り(設計)、また茶道や料理などの文化面で活躍しています。 追放令が出た後は、宣教師の道中の便宜を図り、身辺整理をしていただいた禄などを前田家に返上してから、雪深い北陸路を家族とともに上方に向かいました。 折りしも、大阪城には徳川に反してぞくぞくと武将たちが集まっていました。中には明石掃部(かもん)ら有力なキリシタン武将も。 右近の影響を恐れた徳川は畿内に入ることを許さず、そのまま長崎へ向わせます。京から内藤如安の妹ジュリアとその指導する修道女15人も加わりました。 長崎へ。 そのときからさかのぼること17年、京から長崎までの道を歩いていった26聖人たちのことを、右近も思い出していたことでしょう。 突然の秀吉の命によって、殉教者が決められるとき作成された名簿。その筆頭は高山右近でした。 それを石田三成がなんとか取り消させていたのでした。 右近の心に、自分の身代わりで彼らが迫害されたという思いがあったとしてもおかしくありません。 長崎に着いた右近らは、トドス・オス・サントス(諸聖人)教会(現在の春徳寺)に。 北から長崎に入れば西坂は通り道ですから、右近たちもきっと26聖人殉教の地、西坂を訪れたことでしょう。 明日、5日は、長崎26聖人の日です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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