カテゴリ:信仰
今日の祭壇は、白。正面のバナーはたっぷりとひだを取った白い布。
入祭行進の後、レントの期間控えられていた「グロリア(栄光の賛歌)」が歌われます。 オルガンが響き始めると一斉に鈴やハンドベルの音が! ミサ前に子供を中心に何十人かにベルが配られていたのでした。見ていたのに予想しておらず、驚きました。 「レント後のグロリアのときにベルを鳴らす教会もあるのよ」と、以前代母さんが教えてくれたのを思い出しました。(所属教会では徹夜祭のグロリアがレント明け初めてのグロリアだったような気がするのですが、この小教区では聖木曜日なのですね) 高らかに鳴り響くオルガンと鈴やベルの音に包まれて、体の底からジーンと感動が沸き起こってきます。実際、前の列には涙を抑えている人もいました。 洗足の式があります。 この小教区では、司祭二人がたらいをもち会衆を回り、12人の人の足を洗わせてもらうという形式でした。その間、「主は手ぬぐいをとりて」を歌います。 お話はファーザー・デイビッド。 「イエスに足を洗ってもらった後。弟子たちもイエスの足を洗った・・・とはどこにも書いていないじゃないですか。一体、みんな何をしていたんだろう!」 みんな笑いました。 「イエスが足を洗うといったとき、ペトロは遠慮しますね。でも、イエスは教えたかった。私は愛しているのだと。私に愛させてくれと言っているのです。 今日の福音箇所、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」を思い出しました。 「私たちは、神様の愛を自ら避けることはありませんか? 『いえ、いいんです、いいんです。こちらに来ないでください』と。 「そうではないんです。『愛させてあげないと』いけないんです。主、自らが私を愛す。それをイエスは教えたかったのです。 「神の愛を受け入れてこそ、私たちのほうからも、『では、私も主の足を洗います』と言えます。神を愛することができる。そして、互いの足を洗うこともできるようになるのです。」 常に、常に、先回りして注がれている恵み。愛の大きさを思います。 『洗足』。それは、引き渡され殺されるその直前であるにもかかわらず、イエスが弟子たちに示した大きな愛の形であったのです。 ミサが終わると、Pange Lingua(Hail Savior's Glorious Body)を歌いながら、御聖体を先頭に、全員が会堂を出ます。 晩餐の後、イエスは祈りの場所に出たことにちなんでの伝統的な行事です。御聖体はいつもの聖櫃からとりだされ、別の場所に安置されます。 駐車場をわたって、隣の学校の体育館に設けられた祈りの場に。 全員が会場に入ると、小学生による合唱。その後全員跪き祈ります。 「目を覚まして、祈っていなさい」とおっしゃられたイエス。死の恐怖と戦いながらも、それを受け入れようと祈るイエス。何もわかっておらずに眠ってしまう弟子たち(それはまさに私たちなのですが・・・) せめて、今夜はイエスの悲しみと苦しみと、大きな愛を思って祈りたい。 司祭たちが退場した後も、いつまでもいつまでも、祈りは深夜まで続くのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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