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2005年01月26日
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わたしの尊敬する、内田樹先生のコラムがあったので、記載します。哲学です。面白いです。理屈っぽい人はハマります。私はこれを読んで大爆笑したり、なるほどと思ったり、やっぱりとおもったりもしました。

コラムのテーマは「倫理」---(同)の審問は(他)によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこの様に審問される事、われわれはこれを倫理と呼ぶ。(他者)の異邦性とは(他者)を(自我)、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ(他者)の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される。---エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」合田正人訳より

内田さんがぐっときたレヴィナスの言葉です。上記のこの部分がぐっとくる所なんです。難解です全然意味がわからない。一つ一つの言葉の意味はわかります。ところが、言葉と言葉がつながってセンテンスになると、全然判らない。パラグラフになるともっとわからない。変です。これぐらい判らない人も珍しい。ぐっときたところと言うのは、何が書いてあるのか良くわからないのだけれども、何だか凄そう、と言う所ですね。これが判る様になったらいいんじゃないかなって思うでしょ。あまりに判らないので笑っちゃいますけど。なんだか喉に小骨が刺さったかのようです。僕は初めて読んだ時から20年間ずっと刺さったままです。そうすると常住坐臥というか、何かあるたびに「これはあの事かな・・・やっぱり違うか・・・」なんて、いつも気にするようになる。分類不能、理解不能。でも理解不能な物が持っている力ってありますよね。
それにしても哲学の本って不思議。普通の本は100%判らないと損した気分になるでしょ。実用書なんて特にそうですよね。小説だったら全部は判らなくても、半分ぐらい判ればまあ許せるか。でも哲学書だったら難しいから許せるでしょうか?私は1割判ったら簡単過ぎる。金返せって言いたくなります。でも実用書の様に9割も判ったら、そんなの本じゃない。1割も判らないのに、またいつか読むでしょ。変なもんです。
結局情報じゃないんですよね。本から情報を得るんじゃなくて、判らないからこちらのシステムを組替えて行く。読む側のOSのバージョンアップをしていかないとダメなんですよ。読んで判る物は、今の自分の知的なフレームでいけるんだと、今の自分を肯定してしまう。ところがレヴィナスの文章を読んでいると、今の自分ではダメなんだ、このフレームをバージョンアップしなくては、となる。バージョンを1つ上げると、今まで読めなかった物が少しだけ解読可能になってくる。もう1つ上げると、またちょっと読めてくる。
普通だったら、1割しか判らなかったら怒る。「もっと判り易く書け」とかね。ところがレヴィナスは「判らん私が悪い。自分が変わらなければ」と思わせる。(同)の審問は(他)によってなされる、と言う事は、哲学に限らず、物事を見るという文章の意味は、異なった物の間にある同型性を見抜いてまとめて行くと言う事です。何が同じかという事は、裏返すと、何が違うかという事、差異を見つける事である。それが他者だとなりそうだが、レヴィナスがここで言っているのとチョット違う。他者の定義っていっぱいあるのですが、基本的には他者と私というのはモノサシを共有しないと言うか、共通の祖国を持っていないとか。「境界を接していない」という言い方をレヴィナスはします。基本的にはレヴィナスが書いていることは、何かを判れと言う事ではなく、立ち上がって何かをしろというわけです。見る前に跳べって事です。「そのまんまじゃいかんのだよ。君は。いま机に座って本に線を引いてるけどそんなことしていたらいかんのだよ」というのがビシビシ来るんです。「そんなことやっていたら100年たっても判らないぞ」って。
そんな事はシュルレアリスムやダダの人達がすでに言っていた事の様だが、全然違う。シュルレアリストやダダイスト達には、知的な達成とか、美しさに対する、共通の了解などがある。つまり彼らの間ではモノサシが共通されている。レヴィナスの場合は全然判らない物があった時にどうする?と言う話と思われる。

僕がレヴィナスを最初に読んだ時、しんどかったのは、真っ暗な道を歩いていて、いきなりどつかれたような、そういう経験をしなあかん、みたいな事をはっきり言われるところ。暗闇からドカンですよ。他に例えるなら、我々が麻雀をやっているとします。こっちが「リーチ」と言っているのに、横からいきなり「ロイヤルストレートフラッシュ」ってあがるやつがいるとする。それで「私は麻雀をやっていたんだ」と判るような物。それが多分倫理の定義だと思うんですけどね。凄く単純に言っちゃうと、理解も共感も出来ない良く判らない人と、それでも共に生きていかなければならない時のルールだと思うんです。よくわかる人、感情移入すれば価値観もわかるし情緒も理解出来る人と共生するのであれば、それは感情移入に基づいて構築できる。でもそうじゃなくて、全然共感できない人との共生、麻雀をやっている人間にポーカーをやっている人間が判らない様に、相手のルールが全然わからない。ルールが全然わからない人間と共同的に生きていかなければならない時に、どうやったら「それもありなのね」という関係に持っていけるか。
但し妥協点を見つけて、そこで折り合いをつけると言うのも違うんですよ。「それもあり」という、自分のカテゴリーと向こうのカテゴリーを両方含んだカテゴリーを作らないとまずいよな、と言う方向に踏み出して行く。両方を含むものなんて出来るわけが無いんですけど、でもそういうのに向って踏み出して行こうという事。自分には音楽として聴こえないんだけど、音楽として聴く事も出来るんじゃないかなというふうに。
レヴィナスの倫理ってめちゃくちゃ不愉快です。気持ち良さのかけらも無い。絶対に気持ち良くならないんですよ。自制と言うか禁欲と言うか、これが凄いんですよ。不愉快なんですけど、その不愉快さは今の僕のフレームが感じている不愉快さであって、フレームを切り替えて行ったら、それが快感に変わるんじゃないかなという感じ。不快が快感になるというのはまるでマゾヒストですよ。はっきり言って変態です。みんな変態になりましょうと言う呼びかけなんじゃないでしょうか?多分僕らにとって気持ちがいいと言う事、生理的な自然みたいな物を前提にしているのでしょうけど、それをカッコに入れてみたらどう?という呼びかけだと思うんです。
「他者」って何でしょうね?でも「他者」という問いを立ててはいけないんでしょうね。「他者とは何か」と問うと「あなたは何か」とくるわけですから、「あなたは他者の他者なの?だったら他者と言う概念が判っているんじゃないか」って事になる。何年か前に「何故人を殺してはいけないのか」という論議があったでしょ。テレビ番組で高校生が「なぜ人を殺してはいけないんですか」と質問して、そこにいる大人はまともに答えられなかった。それで雑誌にも取り上げられたし、本も出た。僕はあれを見てカチンと来た。だって、そんな変な質問は無いでしょ。言うなら「何故あなたを殺してはいけないんですか」と言うべき。そして目の前で「何故あなたを殺してはいけないんですか」と問われたら、僕はそんな問いには答えない。それを問うた少年は、一般的な命題を抱えている訳ではないですよね。例えばその人が誰かから喉元にナイフを付き付けられて、しかもナイフ男から「人を殺して何で悪いんですか?」と問われて、ナイフを付き付けられたまま「そうそう。何で悪いんですか?」て一緒になって言えないでしょ。世の中には平穏無事な今の立場だったら言えるけど、立場・u桙ェ変わったら言えなくなる事ってあるじゃないですか。それを平然とナチュラルな事であるかのように、まるで一般的真理を語るかのように語るのは、凄く傲慢でしょ。傲慢と言うかバカですよ。あまりにバカなんでみんな絶句したと言うわけです。他、他人、他者。レヴィナスは他者の書き方をいくつか使い分けています。それぞれ概念が違うんですよね。一つの袋の中に色んな概念が入っていて、絶対に単一の語義に還元できない様に述語を作ってある。一般概念として他者ならば、殺す事も出来るし破壊する事も出来るし、分類も出来るし理解も出来る。それが個別の他者であるとそう簡単には行かない。殺人と言うのは日常的で平凡な事実です。毎日誰かが殺されているし、人を殺す事もあるでしょう。ところがいざ自分が人の首を絞めるとなると手がそう簡単には動いてくれない。殺しちゃいけないんだけど、簡単に殺せる。Aであると同時にAでないという、いるけどいない、出来るけど出来ないみたいな何とも定義しがたい物なんです。それを一つの述語の中にくくり込んでしまっているので、どうにも手が出ない。でも実際にはそうなんだと思うんですよ。レヴィナスは難しいと言いますが、レヴィナスの哲学は物凄く現実に近い。僕らの日常生活のそのものを書いてある。抽象的な他人は殺せるけど、個別具体的な他人は簡単に殺せないと言う感じ。レヴィナスの文章はみんな日常用語です。よく日常用語を使うなと言う哲学者がいます。誤解するからもっと一義的な哲学の述語を使えって。でも違うんです。レヴィナスはわざと日常用語を使っている。人間の日常というのはとても複雑で、哲学はシンプルなんです。人間が普通にやっている、生まれて育って結婚して子供を育ててみたいな事を全部哲学にするとこんなになっちゃう。平凡な人間の日常について徹底的につきあって書くとこうなる。レヴィナスはごく日常的な哲学、等身大の人の哲学と思います。哲学者の為の哲学ではなく、普通の人の為の哲学ですね。
人間って物凄く危うい存在じゃないですか。物がわかったフリをしていますが、さっきの麻雀じゃないけど、単にルール上で生きているわけで、横から「ロイヤルストレートフラッシュ」って言われた時にはじめて、「俺らこの卓は、どんなルールで基礎づけられているんだろう?」って感じるわけでしょ。それは日常生活の中で起こりうる。例えばある日、「日本銀行券は使えなくなりました」なんて言われ「ええっ」ってなる。だけど世界中のどの国でも、中央銀行が潰れるくらいの事はしょっちゅうあるわけです。レヴィナスの本に書いてあります。自分達にとってナチュラルなものが一気に解体するなんてことは、人間にとってごく自然な事ですと。システムが解体する時にどう生き延びるかと言う事を、レヴィナスは書いてある。汎用性の高い知識です。人間社会って危ういし、危うい社会が破綻していく時はどうやって生きていったらいいんだろうと思ったら、もう出来合いの哲学書じゃダメなんですよ。レヴィナスを読んだら何かヒントがあるような気がするんです。レヴィナスは同じ袋の中に複数のレベルの事を入れている。その時々の自分の都合に合わせて、一番必要な物をそ・u桙アから引き出しなさいと言う事だと思う。
研究室の看板は臨床哲学研究室じゃないですか。でも臨床じゃない哲学ってあるのだろうか?ない。僕の言う臨床というのは現場とかそういうのではないんですよ。他者を論じる時って、まず他者性について考えて、そこから触手を伸ばしてだんだん判っていくという方法があるでしょ。レヴィナスは逆。今まで判っていると思っていたことが、ある時わけのわからないものになって行く。臨床もそういうところがあって、臨床というと「みんな苦労してるな。助けに行こうか」とか、「ケアしないといけない」とか思うかもしれないけど、そうではなしに、「こんなものだ」と思ってそこの場所に実際に立ってみると、今まで判っていたはずのものが壊れていく。それが臨床だと思う。

以上です。これを読んでなるほどと思ったり、レヴィナスの本をちょっと本屋で見てみようかなと思えるあなたは、とっても頭の回転がいいか、世の中を自分の意思や考えで人に流されずに、見ている人だと思います。






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最終更新日  2005年01月26日 23時32分07秒
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