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カテゴリ:社会時評
喫茶店で久し振りに朝日新聞を読んだ。「声」欄に定時制高校教員(44歳)のこんな投稿が載っていた。全文を写す。
授業で原発のことに触れた。「3号機が不調のようだね」と言うと、4年の男子生徒が怒ったようにこう言った。「いっそのこと原発なんて全部爆発しちまえばいいんだ!」 内心ぎょっとしつつ、理由を聞いた。「だってさあ、先生、福島市ってこんなに放射能が高いのに避難区域にならないっていうのおかしいべした(でしょう)。これって、福島とか郡山を避難区域にしたら、新幹線を止めなくちゃなんねえ、高速を止めなくちゃなんねえって、要するに経済が回らなくなるから避難させねえってことだべ。つまり俺たちは経済活動の犠牲になって見殺しにされているってことべした。俺はこんな中途半端な状態は我慢できねえ。だったらもう一回ドカンとなっちまった方がすっきりする」 こういう絶望の声は他の生徒からも聞く。震災でアルバイトを失った2年生は吐き捨てるように言った。「なんで俺ばかりこんな目に遭わなくちゃなんねんだ。どうせなら日本全部が潰れてしまえばいい!」 一教師として応える言葉がない。ぐっと堪えながら耳を澄まし、高校生がこんな絶望感を与える政府に憤りを覚える。 定時制高校で本名も出ているので、たぶん今日の高校の電話は鳴りっぱなしだったろうと思う。励ましも多いだろうが、おそらくこんな非難の声も来たのではないか。 「きちんと放射線の安全性については教えたのですか」「生徒の不安は分かるが、それを公の新聞に投稿することで不確定な不安を煽ることはいかがなものかと思う」 かつてフリーターの赤木某は「希望は戦争」と言った。政治から見放されて生涯這い上がれない可能性の高い若者にとって、希望は戦争のような乱世に入って価値観の逆転が起こるしかない、といったのである。しかし、彼は充分確信犯的にそれを書いたのであって、本気度は少なかっただろうと思う。この高校生は違う。半分以上本気だろう。 放射線の安全度って一体どのくらいだというのだろうか。癌になる確率が1/1000になれば安全なのか1/10000になれば安全なのか。そのときまでは未来は一点の曇りもなく開けていたと思っていた若者が、宝くじに当るよりも高い確立で癌になるかもしれないよ、と言われたら、私の場合でもかなり絶望すると思う。 昔、ノストラダムスの大予言というのが流行った。中学一年のときだ。映画も見に行ったし、本も読んだ。この予言はかなり眉唾だという声も聞こえてはいたが、私はかなり絶望した。39歳以降の人生はないかもしれない、それならばここで勉強するなんて無駄ではないのか、どこかに行って今から仙人みたいな余生を送ったほうが充実した人生ではないのか、と本気で毎日考えた。幸いにもこの予言は歳をとるにつれてさらに眉唾度が上がって二十歳のころにはゼロになったから良かった。しかし、放射能は違う。この私でさえ、今政府の言っているほうが嘘ではないかという気がしてならない。高校生の彼らの絶望に私も応える声はない。 しかも、「つまり俺たちは経済活動の犠牲になって見殺しにされているってことべした」という彼の叫びは全然的外れじゃない。今日の新聞を見てもありありと分かるのだ。今の政府は弱いものの命よりも経済を優先しているのである。消費税を導入しようとしている、(貧しいものほど税負担率が上がる)逆進性があるのが分かっているのにあえて出そうとしている。さらには生活保護の見直しも具体的な姿が書かれていた。「働けるのに生活保護を受けている人がいる」と期限付き制度を導入しようとしている。「最低賃金や年金よりも生活保護水準が高いケースもあることから」見直すという。最賃や年金を上げるわけではない。生活保護を下げるという見直しである。得てして大人よりも若者のほうが政治の本質を突くものだ。 これを投稿した先生の勇気を私は応援する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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