カテゴリ:外国史
19世紀のアメリカ(11) 序章 独立戦争と合衆国の誕生…11
5月10日に始まった第2回大陸会議は、6月14日に、13植民地夫々の民兵部隊を統一した、横断的な大陸軍の創設を決定しました。軍事部門に限り、各植民地の統一を実現したのです。翌日15日には、未定だった大陸軍最高司令官に、ヴァージニア植民地の大プランター、ジョージ・ワシントンを任命しました。彼が、後の合衆国初代大統領となることは、ご存知の通りです。 大陸軍の創設は、一つにはマサチューセッツが暴走して、いたずらに戦禍が拡大することを抑えることと、イギリスの狙いがひとつマサチューセッツのみでなく、全植民地の自治権の制限にあることも予測できたため、イギリスの武力行使に対する備えることの、両睨みとして決定されたことでした。 そしてジョージ・ワシントンの最高司令官就任は、対英強硬派のマサチューセッツ代表が望み、強硬派と穏健派が入り混じるペンシルヴェニアなどにも異存がなかったことから、スンナリと決まったのです。 しかし大陸会議は、この時点ではなお、国王の仲介による本国議会との妥協の道を探っており、はっきりと独立に舵を切ったわけではありませんでした。穏健派が提案した、「オリーブの枝」と名付けられた、平和を求める請願を、ジョージ3世に提出する決議も採択されたのです。 事態は8月に入って動き始めます。国王ジョージ3世は、この請願を受け取ることを拒否したばかりか、北アメリカ植民地が叛乱状態にあると宣言したのです。しかも、元同胞への攻撃を渋るイギリス人部隊に代えて、76年1月には、ドイツ人からなる傭兵隊を、植民に派遣したのです。 ここに北米大陸のイギリス人が抱いていた、ジョージ3世への期待感も、遂に消え去ることとなりました。トーマス・ペインの『コモン・センス』と題する長文のパンフレット(邦訳は、岩波文庫で★一つ、100ページくらいの分量です)が、植民地人の話題を集めたのも、同じ1月のことでした。 北米植民地の人たちにとって、とりわけ移民1世や1世の薫陶を受けて育った2世の人々にとって、独立の道を選ぶことは、自己の精神的な支えであった、イギリス人であることを捨てることです。これは非常に辛い決断であり、決して簡単な決断ではありません。 先の戦時中に、日本に強制連行され、戦後も日本に残る決断をしなければならなかった在日韓国人・朝鮮人の皆さんが、戦後65年もの期間を日本で過ごしながら、なお日本国籍の取得を躊躇われていることに、思いを馳せると、独立はと舵を切る決断が、いかに重かったかは、多少想像できるように思います。 ボストンを事実上占領下に置いたイギリス軍と、直接的に対峙するマサチューセッツの人々も、独立へ向けて走り出すことには慎重でした。むしろ独立に積極的な姿勢を示したのは、南部の植民地でした。最も独立を躊躇したのは中央部のニューヨークやペンシルヴェニアでした。 南部の動きに北部が同調し、中部の植民地も独立やむなしに舵を切ったのは、76年も6月半ばになってからのことでした。 こうして76年7月4日の「独立宣言」発表への舞台が、整ったのです。 最後に独立戦争を共に戦った13植民地の地図を掲げておきます。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.05.13 14:12:05
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