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テーマ:鉄道(22075)
カテゴリ:日帰り近郊旅行
長い長い「青春18切符」シリーズを終えて直ぐに次のシリーズに入る気にもなれないので、インターミッションを入れます。交通博物館・寄生虫館・東海村の原子力関係の博物館に引続いての都内の博物館レポートです。名前は「遊就館」と云います。非常にディープなスポットです。 この博物館は東京千代田区九段北の靖国神社の境内に設置されています。 首相が参拝するしないで散々揉めているあの靖国神社の境内にあるわけなんです。 そもそも靖国神社とは、単なる村の鎮守様ではありません。明治維新の際の戦死者を祭るために創建された特別な神社でした。この神社に祀られている神様は戦死者(戦病死や法務死を含む)の方々なのです。靖国神社自身の自己紹介を引用します。 <引用始め> 靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。 <引用終り> こういう神社なのです。このような歴史的な背景もあり、この神社は1945年までの我が国の歴史を肯定的に取る傾向があります。また、東京裁判をはじめとする戦犯裁判で処刑された人々も、日本軍人としての公務執行に起因する法務死として、戦死者と同様に祀っています。特に話題になるのはA級戦犯と言われる人々も合祀していることです。A級戦犯と言われる人々は、法律的には犯罪者とは言えない存在であり(日本法に基づいて公務についただけと言う訳です)、更には国会での「犯罪者ではない」という決議もあり、靖国神社では、東条英機元首相をはじめとするA級戦犯も合祀しているのです。これが色々な面で争点になってしまいます。 私個人の意見としては、彼らは犯罪者ではなかった。しかしながら、今日的な視点では十分に有能ではなかった、と思っています。余りに純粋で無知で国際関係を理解していませんでした。 彼らの拙い指示の結果として、余りにも無意味な戦闘を繰り返し、無意味に人命を消耗したと考えています。ガダルカナルで戦うことになんの意味があったのか?、何ゆえ台湾沖航空戦を始めとするあれほどの虚偽戦果に疑いを差し挟まずに兵士を死地に送ったのか?。負けるにしてももう少し戦い方というものがあって然るべきではないか、と思ってしまうのです。 これが日露戦争を戦ったのと同じ国家だったのでしょうか…。司馬史観に相当影響を受けてますけど。 本題に戻りましょう。 これが遊就館の本館です。一目で古い建物であるとわかると思います。もちろん戦前の建物です。遊就館は、事実上、日本唯一の戦争博物館です。日本には平和記念館は数多存在しますが、先の大戦への反省ではなく、先の大戦に至る歴史を正面から肯定して展示している博物館は恐らくここしかないと思います。早速ですが彼らの自己紹介を引用します。 <引用始め> 明治15年我が国最初で最古の軍事博物館として開館した遊就館は、時にその姿を変えながらも一貫したものがあります。一つは殉国の英霊を慰霊顕彰することであり、一つは近代史の真実を明らかにすることです。近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館のもつ使命であります。 <引用終り> 「近代史の真実を明らかにする」とあります。これが現代日本では必ずしも一般的ではない歴史観の主張を意味すると思われます。ある意味で、非常に少数派の博物館なのです。 鉄筋コンクリートに和風の屋根を載せています。このような様式を帝冠様式と云います。昭和の初期に良く見られた建築様式で、国内では余り残っていませんが、3月に台湾に出かけた際にはやたらと目にしました。九段近辺には旧帝国陸軍関連の施設が残っています。例えば九段会館はかつての軍人会館でした。この建物も帝冠様式です。226事件の際に戒厳司令部が設置されたところですね。そのうち撮影に出かけたいと思っておりますが…。 言い忘れておりましたが、この建物は昭和7年の竣工だそうです。戦後は、靖国神社が財政的にどうにもならなくなったこともあり、富国生命の九段本社として長く使用されたそうです。富国生命移転後に遊就館として復活したと言う訳です。 こちらが入口です。非常に美しいガラス張りの建物です。 こういう風景を見ると、余り戦争博物館という感じがしないですね。某政党の機関紙はこの風景を評して『「遊就館」の玄関ホールは、ガラスから差しこむ陽光で明るさいっぱい。「戦争」の悲惨なイメージはいっさいぬぐい取られた現代的な装いです。』と表現していました。なかなか上手い表現ですね。 この奥が玄関ホールです。この遊就館は所蔵品も凄いのですが、問題は、戦前全面肯定なんです。これは流石の私も「ううっ」と思ってしまう程です。でも、まあ、こんなお話は置いておいて、中に入ってまいりましょう。 ドーン、C56蒸気機関車です。私のブログなんで、やっぱ鉄道が出てこないと…。 良いですねえ、蒸気機関車は。保存状態はまあまあです。全然油を挿していないようで、レストアして走行するのは難しそうです。このC56は微妙な形式です。テンダ式の割にはボイラー径が小さいです。航続距離はあるけど軸重は小さいというのが狙いなんでしょうね。 C56-31号機のプレート類です。日本車両の名古屋工場製です。製造年は昭和11年です。所属には「七」と入っています。七尾機関区所属ということを表しています。 上側のプレートは鉄道連隊のマークのようです。この蒸気機関車は帝国陸軍に徴用され南方に転出し、泰緬鉄道で使用されたものだそうです。戦後もタイ国有鉄道で活躍し、1970年代に廃車されたものを日本に持ち帰ったそうです。「戦場に架ける橋」の世界です。クワイ川マーチの世界です。案内プレートの説明文を引きます。捕虜虐待や現地住民の犠牲にに関する記述がない辺りが遊就館らしいです。 <引用始め> 昭和17年6月、日本軍はビルマ・インド進行作戦の陸上補給を目的に、タイ(泰)のノンブラドックからビルマ(緬)のタンビザヤの最短距離、415キロの区間で鉄道建設を開始した。工事は日本の国鉄規格を基本にして、鉄道第五、第九連隊を中心に連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事し、1年3ヶ月という驚異的な速さで、昭和18年10月に開通した。この区間はかつてイギリス軍が建設を構想したが断念したもので、険しい地形と過酷な熱帯気候などの悪条件のもと、敷設は困難を極めた。 <引用終り> 残念ながら運転台には入れません。どんな改造がなされているか見たかったのですが…。 炭水車の連結器です。自動連結器じゃありません。海外搬出時にこのような怪しげな連結器に取り替えられてしまったようです。 機関車の連結器も同様でした。このタイプの連結器は自動連結器に比べると分割併合時の事故が多くて好ましくないのですが、外国で使用するのであれば止むを得ません。それにしても、この機関車はメーターゲージなのか1067ミリの狭軌なのか…。 こんな配置になっていました。左にC56、右前方に零式艦上戦闘機、右手前に加濃砲が展示されていました。 今回はこの位にします。他の所蔵物は次回にご紹介します。 良ければ一票お願いします。 過去の旅行先の一覧はこちらに! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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