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【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

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カテゴリ:日帰り近郊旅行

前回の続きです。この博物館の戦前全面肯定は物凄いのですよ。いつも映画をやっています。大体の場合は「私たちは忘れない」というのがかかっています。これは凄い。凄すぎます。盧溝橋事件以来の中国での我が軍の行動を完全に正当であったと主張し「腰の軍刀は竹光かという日本人居留民の涙の訴えにも、私たちは本国の命令がなければ動けませんと答えざるを得ませんでした。しかし堪忍袋の緒が切れる時が来たのです。」というナレーションが入ります。すげえ…。

更に更に「真珠湾攻撃はABCD包囲網に締め上げられた日本の自存自衛のための止むを得ないもの」と説明します。まあ、こういう認識は相当な部分的を射ている訳ではありますが、人前で堂々と語るのは中々努力が要りますよね。でも、なんか共感できないのです。あれほどの徹底的な敗北への反省が全然ないのです。現実主義者を自認する私としては、「日本人は悪いことをしたから戦争に負けた」的な戦犯史観には断固同調いたしませんが、敗北への無反省にも共感できません。

なぜあの戦争に負けたのか?、勝ち目は最初からなかったのか?。勝ち目が無かったのなら、なぜ分からなかったのか?。負けると分かれば開戦を避けられなかったのか?。戦争を始めざるを得なくなったのはどこの時点か?。どうすれば勝ち馬に乗れたのか?。このような疑問を徹底的に解明し、二度とあのような惨めな敗戦を味わわなくて済む国を作らねばならないなあ、と思うのです。この遊就館の展示にはこのような問いかけが全然ないのです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと申しますけど、誤った事実認識をもってしまいそうです。

戦争博物館を名乗るのであれば、旧日本陸海軍のどの戦術が有効で、どの戦術が効果なしだったのか、どの兵器は有効で、その有効性はどのようにして喪われたのか、などを説明して欲しい。更に言えば、その反省が現在の自衛隊にどのように活かされているのかを国民に平易に説明して欲しいのです。想像するに現在の自衛隊の組織は旧軍の敗北を徹底的に反省した成果だと思うのです。自衛隊の建軍思想そのものが大東亜戦争の苦い敗北への反省だと感じているからです。その結果、我々納税者は割と健全な軍隊(割とですよ)を保有することができていると感じています。

そんなことを思いつつ、本題に入ってまいります。

日記

最初にご紹介する兵器はこの桜花です。この物体は兵器と読んでよいのか自信がありません。航空機の形状をしていますが、航空機にMUSTの要素がありません。降着装置を持たないのです。

日記

日本海軍の中型爆撃機に吊られて出動し、空中でロケットエンジンに点火し、操縦士を乗せたまま敵艦船に突入するというものです。兵器と言うと、銃砲を思い浮かべますが、これは弾丸に近いものです。人間爆弾と言われました。

その上、戦果は非常に小さく確認できたものは殆どありません。かの有名な野中五郎が率いる神雷隊として中型爆撃機(旧軍の用語では陸上攻撃機)に吊られて出撃しましたが、桜花は当然として爆撃機も全機未帰還となったと言われています。

以前、沖縄での神風攻撃をご紹介しました。米軍にそれなりの被害を与え(神風で何隻もの艦船を行動不能にしました。確実に沖縄県民の犠牲を減らしたのです。軍人が市民を守るという基本原則が貫徹されたのです)、戦術上の意味を持った攻撃になりました。しかし桜花は戦果がないも同然でした。犬死と言わざるを得ないのです。桜花で戦死した方はなんと思っておられるか…。このような兵器企画がなぜ採用されたのか…。

日記

言わずと知れた、零式艦上戦闘機、またの名をゼロ戦です。戦争末期に使われた52型です。

日記

この形式も戦争初期には、熟練搭乗員に操られ赫々たる戦果を挙げたものの、昭和18年頃には敵戦闘機の性能向上と搭乗員の練度向上により、戦果を挙げられなくなっていきます。後継戦闘機の開発には失敗し、本形式に改良の余裕もなく、徒に犠牲を増やして行きました。

英国も第三帝国も主力昼間戦闘機は2形式で頑張りました。スピットファイア&ハリケーン、Bf109&Fw190系列です。これらの系列は1930年代後半に登場し、戦争中絶え間なく性能向上を図っていきました。「発達余裕」があったのです。コンピューター言葉で言うとヘッドルームがあったのです。機体とエンジンに余裕があって、兵装の増設や発動機の換装によく耐えました。残念ながら私たちの祖先が作った戦闘機には、この余裕がありませんでした。

日記

細くて、美しい機体です。哀しい機体です。昭和17年には無敵に近い戦闘機であったものが僅か1年で有効性を喪ってしまうのでした。戦場における兵器の優位性などというものは陽炎のように儚いものでした。当時の日本軍は中々これを理解することが出来なかったようです。残念です。敵が新しい武器と戦術を戦場に持ち込んでくる以上、同じ兵器と同じ戦術ではよほどの兵力差が無い限り優位を保つことはできません。

日記

艦上爆撃機(急降下爆撃機と思ってください)の彗星です。

日記

ほっそりしたエンジンカウルです。水冷発動機を搭載した機体でした。残念ながら開発に手間取り過ぎました。戦局に間に合わず、日本海軍は古くて遅い九九式艦上爆撃機で戦わざるを得ませんでした。

日記

日記

技術的に冒険し過ぎたということなのでしょうか…。自らの技術的な限界を自覚し、手の届く技術で着実な製品を作る、というスタンスが欠けていたのでしょうか…。

日記

日本製とは思えないデザインです。イタリア製みたいな感じですね。

日記

九七式中戦車です。「憂鬱な乗り物」だったと聞きました。

日記

当時の米軍の戦車はM4が主力でした。装甲・主砲・機動力とも全く敵主力戦車に敵いませんでした。我が国の技術的な孤立がこのような兵器の存在を許してしまった、と戦車設計技師のかたが書いているのを読んだことがあります。ちなみに、この車輌はサイパンで海中から引き揚げられて持ち帰られたものだそうです。満州で使ったとしても、労農赤軍の主力戦車のT34には全く歯が立たなかったでしょうね。

日記

日記

日記

漫画「特攻の島」で有名な人間魚雷回天です。こんなものまで作らねばならなかったのです。声も出ません。

日記

私が戦争博物館を設計するならば、同時代の米英の兵器も並べて展示するでしょう。韓国の戦争博物館ベトナムの戦争博物館ハワイの陸軍博物館に行ったことがありますが、敵軍の兵器をきちんと展示していました。

日記

祖国の先人を批判するのは辛いことですが、米英の兵器と我が軍の兵器を並べて展示し、比較できるようにし、何故我々が勝利をつかめなかったのかを理解できるようにします。

日記

一方的に我が国の兵器だけを並べて、よく戦ったと主張しても、教育にならないと思うのです。

日記

更に、戦場での敗北からどのような教訓を引き出したかを説明します。

日記

私たちは60数年前に戦場で手酷い敗北を喫しました。この敗北からの反省と教訓が戦後の軍備のみならず産業にも活かされています。戦後の経済成長の重要な要素がここにはあると思っています。兵器とは工業力だからです。

日記

そんな博物館を作って欲しいですねえ。

インターミッションはこれでお終いにします。次回からは、旬なので、昔の北朝鮮旅行の画像をご紹介してみようかなと思っております。

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Last updated  2006/11/07 07:18:29 AM
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