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顕正会員は日蓮正宗に帰伏するべし

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2010年08月19日
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カテゴリ:御遺命の戒壇
顕正会は宗門が正本堂を御遺命の戒壇であると認めた証拠として、昭和43年の日達上人の御発言や、昭和42年の阿部教学部長(当時)の御発言もよく引用します。

日達上人は昭和43年1月に、

「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」
(『大白蓮華』昭和43年1月号)

と発言され、また、阿部教学部長(当時)は昭和42年10月の正本堂建立発願式について、

「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」
(『大日蓮』昭和42年11月号)

との感想を寄せられています。

確かに当時の宗門において、創価学会の折伏大前進などにより「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かったのは偽らざる事実でした。
しかし、こういった今日から振り返ると行き過ぎの面がある御発言があったとしても、これらはすでに日達上人が正本堂の意義を最終的に確定された昭和47年の「訓諭」によって是正されているのです。

日達上人は「訓諭」において、正本堂は深い意義でもって建立されるとはいえ、未だ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのです。
日達上人の正本堂に関する御指南は、どこまでもこの「訓諭」に尽きるのです。
従って、「訓諭」以前の発言を取り上げて宗門誹謗に利用することは、事実の経過や過去の顕正会(妙信講)の発言に照らし合わしても、筋が通らない欺瞞なのです。

なぜなら、昭和40年から昭和44年までの間は、顕正会も正本堂の意義に賛同していたからなのです。
当時の宗門において、「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かったのは事実でした。
そして、当時においては妙信講もその例外ではなかったのです。
現在の顕正会員は妙信講だけがその考えに反対していたと思っているでしょうが、これは全くの幻想に過ぎません。
さらに、顕正会は正本堂の意義に賛同した上で、正本堂の供養にも参加しているのです。

顕正会が正本堂の意義に賛同し、正本堂の御供養にも参加していたとの宗門の指摘に対し、顕正会は、

「顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。だがそれは-正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち『大御宝蔵』『大奉安殿』として供養に参加したのである。」
(『最後に申すべき事』20ページ)

などと言い訳をしています。

しかし、昭和40年5月25日の総幹部会において、浅井会長は、

「今回総本山に於いて御法主上人猊下の御思召により【まして、いよいよ意義重大なる】正本堂が建立される事になります。【戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、】妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。
(拍手)

実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にましますのであります。この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来広布の時を待って歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられて参りました。唯そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。

その御本尊様がいよいよ時を得て除々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。

【その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を除々におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生(浅井甚兵衛氏)は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。(拍手)】」
(『富士』昭和40年7月号8ページ)
(『顕正会「試練と忍従」の歴史』52~53ページ)

と発言し、正本堂の意義に賛同した上で、正本堂の御供養に参加することを顕正会員に対して積極的に推進していたのです。
この発言は『顕正会「試練と忍従」の歴史』に掲載する際に、【 】内の文言を削除していますが、このような文章の改変は、顕正会が正本堂の意義に賛同していた事実を隠蔽する卑劣な行為です。

当時の浅井会長の発言より抜粋しますが、

「すでに広宣流布の時は来ております」
(『富士』昭和40年9月号12ページ)

「この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。」
(『富士』昭和40年7月号11ページ)

「意義重大なる正本堂」

「戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事」

「大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様(中略)その御本尊様がいよいよ時を得て除々に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになる」

「先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか」

などの認識は、「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かった当時の宗門と全く同様であり、今さら顕正会が当時の宗門の発言をあげつらって誹謗することは、全くの的外れです。

顕正会が指摘するように、当時の宗門では「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かったのは事実でした。
しかし、今日から振り返ると行き過ぎの面があったとしても、それはすでに日達上人が正本堂の意義を最終的に確定された昭和47年の「訓諭」によって是正されているのです。

日達上人は「訓諭」において、正本堂は深い意義でもって建立されるとはいえ、未だ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのです。
従って、「訓諭」以前の発言を取り上げて宗門誹謗に利用することは、事実の経過や過去の顕正会の発言に照らし合わしても、筋が通らない欺瞞なのです。
なぜなら、昭和40年から昭和44年までの間は、顕正会も正本堂の意義に賛同していたからなのです。





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最終更新日  2010年08月20日 00時20分21秒
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