テーマ:顕正会について(238)
カテゴリ:御遺命の戒壇
前回の2月7日の記事で、「顕正会の主張する国立戒壇」を破折しましたが、ヨシさんという顕正会員から以下のような質問をいただきました。
「>『下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。』 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) ↑これ、本当は前後の文があるのではありませんか? 『一宇の道場を建立されたのである』 これでは何の道場を建立したのかわかりませんが?日興上人が『建立された』と過去形なのですから本門戒壇では無い事は間違いないでしょう。」 「一宇の道場を建立されたのである」 とあるのは、富士大石寺のことですね。 つまり、大石ヶ原という絶景の地があり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに大石寺を建立したという意味です。 前後の文が無くても普通なら理解できると思いましたが、顕正会を信仰する方には意味が理解できないようです。 いや、理解しようとしていないのかもしれません。 私も顕正会員でしたから、顕正会の誤りを認めたくないという気持ちはよく分かりますが…。 それでは、ご要望にお応えして前後の文も掲載いたします。 「大石寺の建立へ 日興上人は、身延を離山されてから、まず上人の養家河合の由比家に落着き、ついで上野の郷主・南条時光殿の招きを受けて下条にある南条家の持仏堂に移られた。この持仏堂が、実は現在の下之坊である。 【下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。】 かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) 【 】内の文章が前回の記事で私が引用した部分です。 最後の「かくて、日興上人は~」の部分を読めば、「一宇の道場を建立されたのである」の箇所が、富士大石寺の建立を指していることは疑う余地がありませんね。 この『富士』の記述ですが、富士大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものです。 顕正会も妙信講の時に、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺であると述べているのです。 顕正会で出版された『富士』と、それから前回の記事で紹介したように、『六巻抄 顕正会版』にも富士大石寺が御遺命の戒壇を建立すべき地であると記されています。 顕正会の書籍に、富士大石寺こそ御遺命の戒壇を建立すべき地であるとの記述があることは大変重要な事実です。 顕正会員は「顕正会は絶対に正しい!」と思い込んでいます。 よって、顕正会の書籍や「浅井先生」の言葉を否定することはできません。 顕正会員を破折するのにあたっては、顕正会の書籍を引用して矛盾点を相手に示すのが最も効果的なのです。 また、今回のように「切り文だ!前後の文を教えろ!」と難癖を付けられても、「顕正会の書籍に書いてあるんだから、前後関係は自分で確かめるべきでしょう」と言えば済むのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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