テーマ:顕正会について(238)
カテゴリ:御遺命の戒壇
最初に、旭川ひろしさんの一番初めの質問に対する私の返事をこのブログに掲載します。
内容は、旭川ひろしさんが自身のブログ『ありの金吾様からの御返事( 4月11日付)』に掲載したものと同じですが、今回こちらのブログで掲載するのにあたって、本文中にリンクを貼るなどして書式を整えさせていただきました。 ///////////////// 旭川ひろしさんへ 私のブログにコメントをいただき、ありがとうございました。 https://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/200912250000/comment/view/ 元顕正会員の方でしょうか? 最初にお断りしますが、旭川さんのブログに貼ってあるリンク先はきちんと読んでおりません。 長すぎる上、分かりにくかったです。 (4) また、「御歴代四上人の主張された国立戒壇」と「顕正会の主張する国立戒壇」は、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味は異なるのです。 についてですが、私が言いたかったのは、戒壇の建立の場所が両者では明確に違うという点です。 つまり、「顕正会の主張する国立戒壇」は、その建立する場所からして誤りであるということです。 顕正会では御遺命の戒壇(国立戒壇)を建立すべき場所は「天母山」であると主張していますが、戒壇建立の地は「天母山」ではなく富士大石寺なのです。 実は、顕正会も妙信講の時代に、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺(大石ヶ原)であると述べているのです。 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) この記述は、大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものです。 この件については、私のブログの『「顕正会の主張する国立戒壇」を破す-3』で詳しく取り上げて顕正会を破折しております。 https://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/200912270000/ (1) についてですが、現在の政治形態と20年弱前の政治形態は大きくは変わっていません。 (2) についてですが、日達上人が「国立戒壇」という名称を使用しないことにすると御指南されたことから、現在の日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えは無いと考えるのが自然かなと思います。 (3)については、「日蓮正宗は御遺命の戒壇の定義を変更せざるを得なかった」とありますが、定義を変更したという文証はありますか? それでは、以上をもって回答といたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年05月14日 12時34分17秒
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