ライブと録音
CDで初めて聴く音楽に感動するとしたら、それは主に曲自体の素晴しさのためだろうか?それとも、歌い手の声の質、歌い方、楽器の音、弾き方といった演奏の素晴しさのためだろうか?メロディーが美しいとか、リズムのノリがイイとか、アレンジが巧いとか、歌詞のメッセージが心に響くとか…感動の要因はいろいろ考えられるが、初めて聴いただけでそう感じるとしたら、よっぽど、特徴がはっきりした音楽であるか、たまたま、その人の心のツボにドンぴしゃりハマるものだったのだろう。CDでも感動モノだったならば、ライブのコンサートにはさぞや酔いしれるだろうなあ。それとも期待が大きすぎて、かえってがっかりするだろうか?逆に、初めて聴くのがCDではなく、過去に生の演奏を聴いたことがある場合は、CDはその音楽の記憶を蘇らせるものだったり、比較材料になったり、いずれにしても、かつて聴いたライブ演奏を基準に聴くことになる。静かで穏やかな、癒し系の音楽(に思えた)のサンプルCDを聴いた。正直言ってCDだけではピンとこなかった。悪くはないが、とびきり良くもないメロディが、背後に三連符を連れ、繰り返し繰り返しさざなみのように寄せては返す。あるいは、「行く川のながれは絶えずして」みたいな音楽だ。ハーモニーの進行もしばらくは同じパターンの繰り返し。10年以上前に観た映画『ピアノ・レッスン』に、物言わぬヒロインが狂ったようにピアノを弾きまくるシーンが出てくる。あの曲にちょっと似ている。マイケル・ナイマンだっけ?あのピアノは結構気に入って、サントラ盤のCDを買って繰り返し聴いたし、CDジャケットについていた楽譜を見て自分でも弾いてみたほどだった。そうだな。。映画の音楽だったらこういう曲って合うんだろうな。。現に彼は映画の曲もたくさん手がけている。『This is England』や『ぼくの瞳の光』の音楽を担当した作曲家、と言えば、映画通の人にはわかるのかも知れない。(私は残念ながら両方とも観ていない)ルドヴィーコ・エイナウディ。イタリア北西部トリノ生まれ。53歳。日本ではまだあまり知られていないこのコンテンポラリー・ピアニストの日本デビューアルバム『光、溢れる日々』がリリースされ、そのプロモーションのためのコンサートがイタリア文化会館で開かれた。ジーンズにジャケットというカジュアルな服装でステージに現れたピアニストは、往年のゴルバチョフに似た穏やかな風貌。優しそうな笑顔である。満席の観客に深々と一礼してピアノに向かうと、おもむろに鍵盤の上に構えた。一音一音を丁寧に響かせる演奏には、やはり、CDではわからなかった情感がある。そして、今さらながらピアノという楽器の実に豊かな表現力に感心した。ピアノの右端の高音部を転がるようなキラキラ光るような音から、左端の低音部をオクターブでしっかり押さえる海鳴りのような響きまで。敢えてペダルを踏んだまま余韻がしばらく続いたかと思ったら、ふと沈黙があって、ポ~ンと一音、意味あり気に登場したりする。こういうことがすべて一人でできてしまうからか、ピアノを弾く人はどこか孤独である。ひたすら自己の内面へ内面へと向かう。歌ではないから歌詞の言葉でメッセージを伝えるわけには行かない分、メロディとハーモニーが醸し出す音そのものから微妙な感情の動きが伝わってくる。基本的に静かだし、どちらかと言えば単調なのだが、ふと見ると、ピアニストは半分トランス状態の表情で、彼の心に浮かぶまま、次から次へと指先から音楽を紡ぎ出しているかのようである。全部が即興ではなく、確かにCDで聴いた覚えのある曲が次々出てくるが、どの曲をどういう順序でどのようにつなげて演奏するかは、その場の気分で決まるとか。コンサート用に曲名を順番に書いたプログラムがない理由がわかった。プログラム自体が、その夜限りの一期一会の内容になるというわけだ。ピアニスト本人と同じトランス状態とまでは行かないが、いつしかピアノの音色に引き込まれながら、無意識下にしまい込んだ記憶や感情を探すような感覚にとらわれる。きっと、聴く人によってしみじみとチャンネルが合う曲というのは違っているのだろう。今日のコンサートで私の心をとらえた曲の名をあとでもう一度CDの中で探したら、『いつもの道を』と書いてあった。いわくあり気だ。遠い異国のうら寂れた海辺の町を思わせるエキゾチックでメランコリックな曲である。もう一度聴いてみたら、CDで初めて聴いた時よりいい曲のように思えた。彼の音楽のマジックはこのへんにあるのかもしれない。ヨーロッパでの人気の秘密を垣間見た気がした。しばらく、繰り返し、しみじみ聴いてみようか。。