エミリー・ウングワレー展
オーストラリア大使館で昨秋行われたエミリー・ウングワレー展の記者発表の日には、日記に「来年のことを言うと鬼が笑う」と書いていたが、あっという間に時は流れ、7月28日月曜日という最終日にぎりぎり駆け込んで、なんとか実物を見ることができた。美術館に行ったのは久しぶりだったが、無理してでも来てよかった。これを逃すと、もう当分は日本に来ないし、オーストラリアまではなかなか行けないから。国立新美術館は、行列ができるほどでは全然ないが適度に人が入っていた。ちょうどいい混み具合だと、他の来館者にも自分と同じような関心を感じて共感が湧く。日本の国宝満載とか、西洋絵画の巨匠とかではなくて、アボリジニ・アート?きっとあなたも何かを探してこれを観に来たんですよね?入ってすぐ、22枚のカンヴァスから成る「アルハルクラ」が目に飛び込んでくる。エミリーと、彼女のふるさと「アルハルクラ」との精神的なつながりを称えるというその巨大な作品は、めくるめく色彩に溢れる。青、ピンク、白、黄色、オレンジ、緑……またピンク! なんだかわからないけれど、画面から強烈なエネルギーが放たれ、息をのむ。彼女は、その生涯をオーストラリア中央部のシンプソン砂漠の端にあるアルハルクラの土地の「ユートピア」というアボリジニのキャンプで過ごした。1988年ごろ、オーストラリア・アボリジニナル・メディア協会が、アボリジニの経済的自立と文化の発展のために企画した教育プログラムとして、「ユートピア」にキャンバス100枚と絵筆や絵の具を置いていったことが、エミリーが突然絵を描くきっかけとなる。1910年ごろに生まれたらしいので、もう80になろうかという歳だったが、それから1996年に亡くなるまでの8年間という短い期間に、3,000点を超える作品を残したのである。「すべてのもの。私のドリーミング、ペンシル・ヤム、トゲトカゲ、草の種、ドリーム・タイムの子犬、エミュー、エミューが好んで食べる草、緑豆、ヤムイモの種。すべてのもの、それが私が描くもの。」エミリーがインタビューで語った言葉を英訳したもの(の和訳)だという。彼女は、英語を話さず、字も書かない。「ドリーミング」というのは、アボリジニ独自の世界観で、万物の創造を終えた先祖が被造物に姿を変えて世界のあちこちに潜んだため、世界の万物に精霊が宿ると信じられている。さらに、そういう精霊を子孫である部族や自分個人と同一視する観念でもある。頭でわかろうとすると余計にわからないが、要するに、世界はそこらじゅう精霊に満ち、自分もそれと一体である、ということだろうか。エミリーが描くものは、対象の姿を再現する具象画では全くないが、対象を抽象化してみたということでもなく、彼女には実際そのように見える、または感じられる対象のイメージをそのままキャンバス上に吐き出した、という感じである。おびただしい点点点点で埋めつくされた作品群からは、ドリーミングとは、種とか細胞レベルまで一体化することなのかと思わせられる。また、「ビッグ・ヤム・ドリーミング」という3メートルx8メートルの巨大な黒い画面に無限に広がる白いうねうねした網目模様の途方もない作品。ヤムイモの根っこが、ランダムに、しかし、自然の法則にのっとって地下深く伸びていく様を、この人はリアルに感じることができるのだとしか思えない。何の下書きもせず、書き直しもせず、迷いなく、どんどん点を打ち、決然と線を入れていく、というのはどういう行為なのだろう。そして、色である。パレットなどなく、絵具は缶に入ったまま筆を浸し、絵筆がないときは拾ってきたゴムサンダルで代用したとか。そうやって、絵を描く前からずっとやってきた、大昔から伝わる砂絵やボディ・ペインティング、歌や踊りと同様に、ひたすら、ふるさとの大地「アルハルクラ」を称える絵を描く。それが彼女が人生の最後の8年間にした「生きること」だった。「西欧近代美術が展開した末にたどり着いた抽象表現主義に比するような芸術世界」という言い方が、リリースにもチラシにもあったが、西洋の側から見たとても傲慢な言い方だと思う。それは逆であって、西欧近代美術はさまざまな試行錯誤を経て、ようやく原初の純粋な表現を思い出したということなのではないか。数人の天才によって。なぜ、こんな絵が描けるのか、大いなる謎だが、西洋文明が入ってくる前の伝統文化を維持していたアボリジニの中でも稀有な部族の最後の世代の中に、天の声とか、宇宙の力とか、大地の精霊と直接交流できるつまり天才がいたということが絵を通して発見されたわけである。いずれにしても、天才はどこの部族にも種族にも国にも、ごく稀にしか現れないのだろう。その一人がオーストラリアの砂漠にはぐくまれたということである。「大地の創造」という作品の乱舞する緑色が本当に美しかった。