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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2008年10月15日
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カテゴリ:歴史・考古学
 日本代表だめかもしれんね。

・・・・・・・
 僕は多年トルコに行き来しているが、そこで「日本人か?」と聞かれることは最早ほとんどなく、大抵東南アジアか中央アジアの国名が挙がる。トルコ人とは似ても似つかない僕のモンゴロイド顔からそうした地域が挙がるのだろうが、東南アジアは僕が日に焼けて黒くなっているせいとして、中央アジアのほうは僕の話す流暢だがやや拙いトルコ語のせいだろうか。中央アジアにはトルコ語と同系統の言語を話す民族が広く分布している。
 特に「オズベキ」に似ていると言われたことが何度かある。「オズベキ」とは日本では通例「ウズベク」と称される、中央アジアのウズベク人のことである。トルコ人にとって最も身近なモンゴロイドの代表が、ウズベク人なのだろうか。

 ウズベキスタン共和国は、サッカー日本代表の国際試合などで耳にするほかは、日本人にとって馴染みが薄い。この国は隣接する中央アジアの国々(トルクメニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)とともに1991年にソヴィエト連邦から独立した。「一衣帯水」という言葉があるが、内陸国であるこの国は隣国(旧ソ連諸国とアフガニスタン)も全て内陸国という稀有な二重内陸国で、そういう意味では島国の日本から最も「遠い」かもしれない。
 ウズベキスタンは面積44万平方キロ(日本の1.1倍)で、世界で4番目に大きい湖だったアラル海から、中国の国境に程近いフェルガナ盆地までの東西120kmに及ぶ国土がある。その多くはキジルクム(「赤い砂」)など砂漠に覆われているが、アラル海に注ぐアム川沿いや、点在するオアシス、そしてフェルガナ盆地などは対照的に肥沃であり、人口2700万と中央アジア諸国で最多の人口を擁する。国民の約4割が18歳以下ときわめて「若い」国でもある。
 「ウズベキスタン」という国名は「ウズベク人の国」という意味だが(ウズベク人は少数民族として中国やアフガニスタンにも居る)、ウズベク人は全国民の7割程で、かつてのロシア帝国やソ連支配の名残でロシア人が5%いる。またウズベキスタンの西端1/3はカラカルパク自治共和国となっているが、同じトルコ系ながらウズベク人よりモンゴロイド形質が強いカラカルパク人は、国民全体の2%に過ぎない。
 東部のフェルガナ地方では、旧ソ連時代に画定された隣国タジキスタンやキルギスとの国境が複雑に入り組んでいるが、それはこの地域の多様な民族構成を反映している。そもそも「ウズベク人」という民族概念は、近世の部族名を20世紀になってこの地のトルコ系民族の総称として採用したもので、例えば古都サマルカンドやブハラではトルコ系のウズベク語とペルシア系(印欧語)のタジク語の両方を話すバイリンガルが普通だった。公式にはウズベキスタンのタジク系国民は5%程度ということになっているが、タジク人の主張ではもっと多く、政府により少数派のタジク人は弾圧されているという。
 乾燥しているウズベキスタンでは、夏は雲一つない青空が広がり降水は無い。灌漑などで水を得れば豊かな実りが得られるが、ソ連時代の計画経済の名残で、耕地面積の8割が国家主導の綿花栽培にあてられ、食料自給率は低い。また灌漑による大規模な自然改変の影響で、流入水量が減少したアラル海の縮小が進んで現在はかつての面積の四分の一になり、干上がった湖底に漁船が放置される死の光景が広がり、漁業は壊滅した。他方独立以来の経済改革により外資を導入し、金、天然ガス、ウランなどの地下資源開発が進んでいる。地下資源輸出額は金が最多であるが、最近開発が進む天然ガスはパイプラインを通じてヨーロッパなどに輸出されている。

 ウズベキスタンでは古くは中期旧石器時代(ネアンデルタール人)の遺跡が発見されている。紀元前2000年前後には南部のオアシス地域に都城を伴う高度な文明が出現した。一方同じ頃北部にはアンドロノヴォ文化が及んだが、この牧畜民はのちに騎馬を利用した遊牧民になり、オアシス地帯の農耕・都市民とステップ地帯の遊牧民という、この地域を特徴付けていた二つの生態が成立する。
 この地域は古代にはソグディアナあるいはバクトリアと呼ばれたが、紀元前6世紀頃に西アジアを統一したアケメネス朝ペルシアの支配下に入った。西方の西アジア文明、そして東方の中国文明の中間という位置により、ユーラシア大陸のほぼ中央にあたるこの地は、「シルクロード」と通称される東西交易の主役となる。
 アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロス大王は、紀元前328年にこの地に遠征して越冬し、当地の豪族の娘ロクサネを最初の正妻に迎えている。アレクサンドロスの東方遠征とともにヘレニズム(ギリシャ)文明がこの地に伝わる。紀元前240年にはギリシャ系支配層によるバクトリア王国が成立、インド北部まで勢力を伸ばし、そこで仏教はヘレニズム文化と融合して優れた偶像芸術を持つことになる。
 紀元前140年頃から、東方から遊牧民である月氏(中国の史書での呼称。印欧語族)がこの地に移って来る。紀元前1世紀にはクシャン朝を樹立してインド北部にまで進出し、カニシカ王は仏教を保護した。
 一方中国を統一した前漢も西方への関心を持つようになり、中国の史書は張騫が探検した、馬と葡萄を豊富に産する「大宛国」について伝えているが、この大宛とはフェルガナ地方のことである。東西交渉は活発になり、仏教やその美術はこの地を通って中国へ伝わり、さらに6世紀には日本に伝来することになる。

 交易と農耕の富に恵まれていたが故に、この地は様々な民族の支配を受けることなった。5世紀半ばには東方から騎馬民族エフタルが現れ、それを追うように6世紀にはやはり東方から突厥が出現し、この地のオアシス都市を支配した。「突厥」とは中国史書での呼称であるが、「テュルク」すなわちトルコの音写である。7世紀初め、仏教の経典を求めて天竺に旅立った玄奘三蔵は、この地を通ってインドに辿り着いた。
 やがて突厥が分裂して中国の唐王朝の勢力が及ぶようになり、この地に住むペルシア系のソグド人たちは、商魂たくましく中国との交易に従事した。しかし中央アジアに勢力を伸ばしていたイスラム教徒のアラブ軍(アッバース朝)に751年のタラス川の戦いで敗北し、またソグド人安禄山が起こした反乱で国内が混乱したため、唐の中央アジア支配は後退した。この地にはゾロアスター(拝火)教徒のほか、ユダヤ教徒、仏教徒やキリスト教ネストリウス派もいたが、以後はイスラム化が進んでいく。
 アラブ人たちはこの地を「マーワラーアンナフル」(川の向こう側)と呼んでいた。アッバース朝が衰えると、819年にブハラを都とするサーマン朝が分離独立した。「知の鉱脈」と謳われたブハラはバグダッドなどと並ぶイスラム世界の中心地となり、ブハーリー(ハディース=預言者ムハンマド言行録の編者)、イブン・シーナ(医学・博物学者)などを輩出する。
 サーマン朝は地元のペルシア系官僚や東方遊牧民出身のトルコ系軍人を重用したため、ペルシア語文学が隆盛する一方、トルコ系軍人が実権を握り、その西方移住が促進された。サーマン朝はカラ・ハン朝に代わられ(999年)、ついで現れたセルジューク朝は11世紀にアム川を越えてペルシア、さらに小アジア(現在のトルコ共和国の領域)へと進出してゆく。1141年にセルジューク朝を破ったホラズム朝もまたトルコ系である。

 1219年、東方からチンギス・カン率いるモンゴル軍が侵攻してホラズム朝を滅ぼし、中央アジア全域を支配下に収めた。1227年にチンギスが死んだ後、モンゴル帝国は分割され、この地はチンギスの次男チャガタイの子孫が継承するチャガタイ・ウルス(国)の領土となった。モンゴル帝国もトルコ系軍人・官僚を重用したため、中央アジアのトルコ化はさらに進んだ。
 1336年4月にシャフリサブズで生まれたティムールは、チャガタイ・ウルスの一部将から身を起こし、一代で中央アジア・西アジアを制覇した。故郷近くのサマルカンドに都したティムールやその孫ウルグベクは、碧いタイルも鮮やかな壮麗な建築物を数多く建設したが、その王朝は数代で分裂・衰退した。
 それに乗じてこの地を征服したのが、北方のトルコ系遊牧民ウズベク族(シャイバーン朝)である。ウズベク(オズ・ベク)とはトルコ語で「真の君主」くらいの意味だが、その名はチンギス・カンの子孫で敬虔なイスラム教徒君主ウズベク・ハンに因むとされる。1512年にウズベク族はティムール朝のバーブルを破って中央アジア支配を確立した(敗れたバーブルはインドに転進しムガル帝国を樹立する)。
 しかしウズベク族は内部抗争や南方のペルシア、北方のカザフ族との戦いで疲弊し、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドを拠点とする小ハン(王)国に分裂した。

 中央アジアでこうした盛衰が繰り返される間に、世界情勢は大きく変わっていた。シベリアを征服したロシアが南下して中央アジアを窺うようになる一方、インド支配を確立したイギリスもまた中央アジアに関心を持つようになった。産業革命による紡績業の発達やアメリカ南北戦争の混乱による綿花の品薄感が、両帝国をして綿花栽培の盛んな中央アジアに目を向けさせた。
 イギリスがアフガニスタンで手を焼くのをしり目に、1860年代からロシアは中央アジア征服に乗り出す。かつて無敵を誇った遊牧民の騎兵もロシア軍の火器には勝てず、敗れた各ハン国は1876年までに全てロシアの支配下に置かれた。
 ロシアはタシュケントにトルキスタン総督府をおいて植民地経営を進め、綿花増産を強制し、鉄道を建設した。伝統の崩壊を危惧したウズベク人の反乱は容易に鎮圧され、ジャディードと呼ばれる知識人たちは、ロシアやオスマン(トルコ)帝国、日本などに習いトルコ民族の統一・近代化を目指す運動を始めた。第一次世界大戦中の1916年にはロシア支配に反対するバスマチ蜂起が発生し、さらに翌年にはロシア革命が起きたが、ジャディードたちの多くは革命で成立した社会主義ソヴィエト政権に合流した。
 
 1924年にソ連内の一国としてウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が成立、1929年にはタジクと分離した。ソ連の独裁者スターリンの下では、1930年代に「民族主義者」の烙印を押されたウズベク人が多数粛清された。第二次世界大戦中はスターリンに敵性国民とみなされたドイツ人、高麗(朝鮮)人、タタール人などが前線に近い地域からこの地に強制移住させられ、現在も少数民族として残っている。
 1959年にウズベク人シャラフ・ラシドフがウズベク共産党第一書記に就任し、20年以上その地位にあったが、その下では縁故主義や汚職がはびこった。ラシドフは中央からの綿花増産指令も嘘の達成報告で乗り切った。ソ連は綿花大増産を「社会主義の勝利」として宣伝し、その褒賞としてウズベキスタンには資本が分配され、1977年には中央アジアで唯一の地下鉄が首都タシュケントに開通している。
 ラシドフの死から3年後の1986年、ソ連ではミハイル・ゴルバチョフ書記長による改革が始まってウズベク共産党の偽装や汚職が明るみになり、指導部が総入れ替えされた。改革でソ連政府の権威が弱まると、1989年にはフェルガナ地方で民族紛争が発生した。その結果イスラム・カリモフがウズベク共産党第一書記に任命された。
 しかしソ連は崩壊し、1991年にウズベキスタンは独立した。カリモフはそのまま大統領に就任し、国民投票を根拠に、憲法の規定に背いて現在まで任期を延長し続けている。外交ではロシアから離れて西側に接近する姿勢を見せ、2001年以降のアメリカによるアフガニスタンでの「対テロ戦争」にも協力し、アメリカ軍やドイツ軍の駐留を認めた。国内でも1999年や2004年にイスラム原理主義勢力によるテロが起きている。
 2005年5月、アンディジャンで反政府暴動が発生し、当局による発砲で市民数百人が死亡したといわれる。非難声明を出した欧米の姿勢に対抗して、ウズベキスタンはアメリカに米軍の駐留延長拒否を通告、同年11月に米軍は撤退した(ドイツ軍は今も駐留)。同月ロシアと軍事同盟を締結、また上海協力機構にも加盟して、ロシアや中国との関係強化に乗り出している。





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最終更新日  2008年10月19日 18時27分39秒
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