動かないことが決定的となる時
身体の部位が動くまでの仕組みは単純です。脳で動かすという意志決定がされ、その信号を神経が伝達し、筋肉が収縮することで動きが出ます。意志 X 伝達 = 動き掛け算のスタイルにしたのは"ゼロに何を掛けてもゼロである"ことを思い出すからです。意志がゼロならば動きはゼロ、伝達がゼロならば動きはゼロ。つらいのは後者です。So pain, no gain.(文法的誤)どんなにがんばっても報われない。神経の伝達がなければどんなに念じても筋肉は動きません。神経が信号を伝達していないという現象の本質は神経の損傷と神経の一時的麻痺のどちらかです。セキソン当事者は神経の一時的麻痺と信じてリハビリに励みます。神経の切断という疑いが心の中にあるので、ある意味馬鹿になって訓練を続けます。だから、完全損傷でも歩けるという非論理的な表現や、切れた神経をつなぐ奇跡のリハビリという無責任な表現に接するたびに腹が立ちます。完全麻痺でも歩けたという表現に触れると、切断を免れたもののショックで信号を伝達しなかった神経が時間の経過と適切な刺激のもと目覚めたものと拡大解釈します。神経の切断が確かな場合動かないことは決定的です。しかし、この確定は極めて困難です。MRIは間接撮影に過ぎません。仮に直接目視できたとして内部の損傷を診断できるでしょうか。今動かないという現象は神経が信号を伝達していないという本質の根拠になります。しかし、今神経が信号を伝達していないという現象を根拠に神経の損傷という本質を推測することは危険です。動かないことが決定的となる時とは動かす意志を失った時だけです。必要な神経が切れていると信じて最初から努力しないとか、これだけリハビリをがんばってきたのにちっとも動かないと諦めてしまうとか、いろいろあるでしょう。他人に思い込まされたとしても、その考えを受け入れるのは自分自身です。左の手首と手指の機能回復、まだまだ諦めていません。