前よりつづく
「インターネットは誰のものか」 崩れ始めたネット世界の秩序 <再読> <2>
2007/07 日経BP社 /日経BP出版センター 単行本 228p
これも<再読>。本との出合い方もいろいろあり、一様ではない。図書館だったり、書店だったり、自分の古い書棚だったりする。あるいは偶然に病院や大学、友人宅で見つける本もある。もちろんネットのリンクで見つける本も相当数あり、また、予告によって、出版される前から期待して待つ本もある。
この本は、一回目には書店の新刊コーナーで立ち読みしたもの。ですます調で書かれており、また、書かれている語句も必ずしも難しくはない。記述式なら、穴埋め文章を埋めることはできないが、選択式なら、この本で使われている語句程度なら、私のようなシロートでも大体は使いきれるのではないか、そう思わせてくれる一冊である。前回は、立ち読みして面白かった。今回、図書館の新着本コーナーに入っていたので、また、さっそく借りてきた。
しかし、本というものは不思議なもので、立ち読みであろうが、精読であろうが、その本に対するイメージというものはそれほど変わるものではない。読んで面白いところ、気になるところ、違うだろう、と思うところも、大体おんなじだ。そうとはいうものの、立ち読みではなかなか抜書きできない。せっかく自宅で寝っころりながら読んでいるので、気になったところを抜書きしておこう。
しかし日本は、世界に先駆けてネットワークの中立性のルール作りを進めなければなりません。プロードバンドがこれほど普及して、インターネットの混雑が深刻になっている国は、ほかにはないからです。ルール作りは簡単ではありませんが、一刻も猶予はありません。p226
思えば、この本のサブタイトルは「崩れ始めたネット社会の秩序」だった。なるほどとも思うが、崩れ始めるほどに、いままでのネット社会の「秩序」は整然としていたのか、という疑問もある。いちユーザーとして気がつかない深刻な問題が、たくさんあるのかもしれない。「秩序」というと、かつてのパソコン通信時代のフォーラムにおけるシスオペなどをおもいだすが、はて、あれがいいのかどうか、ちょっと窮屈な感じがしないでもない。2ちゃんねるよりはいいかも知れないが、いやいや2ちゃんねるのほうが優れている場合もある。両方あっていいのだろう。
当初のインターネットは、たとえて言うと、きれいな高台の見晴らし台を利用してもらうために、地元のボランティアのみなさんが清掃活動したり、危険な箇所には看板を立てたりして、ピクニックを楽しみにくる不特定多数の人たちにこの見晴らし台を利用してもらってきたという世界です。そのうち少しづつ観光客が増えてきて、ボランティアだけでは対応できないので、村役場から給料をもらいながらみんなで助け合って清掃活動や整備をするようになりました。ところが、あまりに観光客が増えて、給料だけでは清掃用の洗剤なども賄えなくなってきました。そこである日突然、柵を立てて見晴らし台に入るのに高額な入場料を払いなさい、という人がでてきたらどうでしょう。p18
ここにおける例え話には、いろいろな欠点があると思う。が、まず、著者のいうとおりだとしても、「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」のWeb2.0の潮流の中で、にわかにはこの例え話は納得できない。あるいは、そのような時代が来たとしたら、私は高額な入場料を払うよりは、使わないという道を選択するだろう。
数年先のインターネットの姿として、「健全な自己増殖性」「無意識のインターネット」「電脳民主主義」という三つのキーワードに整理して、考えて見ましょう。p215
という流れの中で、著者は三つ目のキーワードについてこう言っている。
三つ目は、「電脳民主主義」です。国境のないインターネットという世界で、民主主義を維持していくという姿です。インターネットはサイバー(電脳)世界でありながら、リアルな世界を映し出す鏡のような存在です。ただし、リアルな世界ほど明確なルールが確立していません。各国の思惑が入り乱れるインターネットでも、民主的で統一的なルールに基づいて人々が自由に行動できたり、紛争が起きた場合には円滑に解決に導いたりできるような仕組み、つまり「電脳民主主義」を構築していくことが必要です。p220
まさにその通りだと思う。インターネットが今後どうなるのかは、誰にもわからないことではあるが、そのような方向に歩み続けるためには、この本で書かれているような、視点からインターネットの現状を見つめておくことは大変大事なことだと思われるのは、確かなことだ。
<3>につづく