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テーマ:暮らしを楽しむ(383645)
カテゴリ:チェロキー
「『忘れられた日本人』を読む」 網野善彦 2003/12 岩波書店 229p No.880★★★☆☆ 30年来の旧知ではあるが、この15年ほどはもっぱらネットつながりのSパンのSNSの日記に「忘れられた日本人」や「非常民の民俗文化」について書いてあったので、興味をもった。本当は宮本常一「忘れられた日本人」を読むべきなのだが、人気本なのか、リクエストしてもなかなか私の番にまわってこないようなので、先にこちらを読むことにした。もっともこのカテゴリでは、中沢新一の「僕の叔父さん網野善彦」や「網野善彦を継ぐ。」に目を通したところだったので、まんざらつながりがないわけではない。 赤松啓介の「非常民の民俗文化」はもう手元にあるのだが、どうやらこの本は五冊分の内容がある、ということなので、速読乱読の当ブログとしては、やや敬遠ぎみ(汗!。そしてこの本の延長線上にあるらしい、という「オニババ化する女たち」ももうすでに手元に来ている。やや準備不足のまま、こちらのほうから手をつけてみようか、ワクワクドキドキ。 私はパソコンはもちろん、ワープロもできずに、いまだに原稿用紙にものを書いています。ワープロを習うよりも原稿用紙に書くほうが早いので、一生ワープロは使うつもりはありませんし、コンピュータとはおよそ縁のないまったく時代遅れの人間になっており、子供とも話が通じません。向こうもコンピューター関係の買い物をしてきても、「どうせ親父は何を買ってきたのかもわからない」と思ってなにも言わないくらいになっています。 このなかにもそういう世代の方が若干おられるかもしれませんが、今の若い世代と私どもの世代とのあいだに横たわっている断絶は、大変深いものがあるような気がします。私流に言えば、14,5世紀頃の日本列島の社会ではかなり重大な文化、生活の大変換があったと思っていますが、それに匹敵するくらいの、あるいはそれ以上にはるかに深刻な社会の大変動が、現在、進行中なのかもしれないという実感をもっているのです。p31 この本は、2003年にでているが、実際には1999年6月に岩波書店において、中沢新一の叔父さん網野善彦(当時71歳)が行った講座がベースになっており、若干の加筆・訂正がほどこされているものだという。コンピュータ、パソコン、インターネット、グーグルなどの、現在の大変動を大変動とみるのは当然だと思うけれど、かつてこの日本において、14,5世紀頃の日本列島の社会ではかなり重大な文化、生活の大変換があった、ということを考え直してみるのも、すごいことだと思う。 縄文人の形質をよく残すアイヌ人と沖縄人 このことを背景にして、植原さんはアイヌと沖縄人が、最もよく縄文人の形質を残した人びとだとしています。たしかにアイヌと沖縄人とは、よく似ています。しかもただ外見的に似ているだけではなく、形質上も似ていると植原さんは言われていますが、これについてはおそらくこれからいろいろな議論が出てくると思います。たしかに北海道はオホーツク文化が入ってきますし、沖縄には中国大陸の南部からの多くの人が入っているとは思いますので、それが形質上にも影響を及ぼしているのは確実だと思います。実際、縄文人の名残りが最もよく残っているのは、沖縄と北海道であり、東北、関東にも縄文文化の名残が強いのは事実だと思います。 p143 この感覚はよく分る。いまから35年前、18歳の私は、ヒッチハイクで日本一周した。網走、利尻、礼文から、九州、沖縄まで。なんせいわゆる無防備な無銭旅行の3ヶ月間だったので、各地で地元の人々のお世話になった。当時の日本人の情はまだまだ厚く、あちこちの小父さん、小母さん達には大変お世話になりました。大変ありがとうございました。 あの当時の率直な感想は、アイヌと沖縄との類似は当然として、青森竜飛岬と、鹿児島薩摩半島の雰囲気がとても似ていることだった。地元の人々の言葉が、まったく100%分らなかった。だが、その語尾や語感、情緒がとてもよく似ていた。敢えていうなら、鳥取や島根の山陰地方の言葉や文化も、東北のそれと共通項が多いのではないか、と直観した。 この網野の本は、語り言葉でもあり、わりと薄い本なので、とても入りやすい。私自身は、これらの民俗学と言われる分野と、レヴィ=ストロースなどの文化人類学とどのようにつながってくるのかは、いまのところ不明なのだが、民俗学というと日本という地域に限定された情緒的な面も含んだ視点のような感じがするし、文化人類学というと地球上の先住民達を網羅的に把握しようとしているのだが、いわゆるユダヤ人(レヴィ=ストロースもそうだったけれど)的な合理性が徹底的に貫かれている世界のような感じもする。 このブログではこの「チェロキー」カテゴリはあと30くらいで終わってしまうのだが、この分野をおっかけしていったら、とても、この冊数の本では終わるまい。アメリカ・インディアンというジャンルでいえば、北山耕平のブログでも眺めておれば、だんだんとこちらの情報にも通じてくるのだろうが、私の中では、どうもつながりが悪い。無邪気な私は、この民俗学や文化人類学が、シャスタ山の地下共和国にでもつながっていってくれないことには、どうも納得がいかないのである。 それもこれも、なんでもかんでも「~~学」という文字をくっつけると有難がってしまう風潮には拒否感覚がつよいからだ。これらの「学問」は一体、人間の何をさぐろうとしているのか。このブログでは、この辺がわかればいいなぁ、と思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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