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テーマ:暮らしを楽しむ(383650)
カテゴリ:チェロキー
「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」「なしてや・・・・・」「みんなモンペをはいて田植えするようになったで」「へえ?」「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」「そうじゃろうか?」「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神様がニンマリニンマリして・・・・」「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」「ほんとじゃろうか」「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ・・・・」「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで・・・・・」「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」 この本、中沢新一の叔父さんが解説を書いている。「土佐源氏」p131の話しはどこかで読んだことがある。どことはしっかり思い出せない。佐野眞一「私の体験的ノンフィクション術」であっただろうか。あるいは、玉川信明「反魂丹の文化史」か、鳥越俊太郎「人間力の磨き方」の中でのことであっただろうか。いずれにせよ、文章を書く立場の人間にとって、こういう文章を書きたい、こういう見方をしたい、というお手本としてあげられていたのだと思う。 翻ってみれば、例えば文頭に引用した田植えの話しなど、生まれてこの方、春には必ず田植えの捕植の仕事を手伝ってきた私としては、ごくごく当たり前の、よくよく分りやすい話で、にんまりせざるを得ない。なに、私の手伝いなど、たった一日、よくて二日ほどだが、かつての日本の農村では、この田植えが近隣の共同作業になっており、通常、人々は約一ヶ月ほど毎日毎日この田植え仕事に借り出されたはずである。この程度の田植え話でもしないことには、体が持たなかったであろう。 日本全国どこでもあったこのような風景は、もうない。仕事も村も日本人も一変した。たしかに「忘れられた日本人」と言われれば、たしかにその通りだと思う。この一冊に込められたエピソードには、バラバラで不ぞろいだけど、不ぞろいであるだけに、なにか共通する温かみがむんむんとする。 この本、すでに私の次の人の予約が入っているようだ。もうすこしゆっくり読んで見たかったが、それはまたの機会にゆずるとして、速やかに次の人に回そう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 09:38:25
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