日本のジャーナリズムのあり方はこれでいいのか、作家の赤川次郎氏は10月25日の東京新聞に、次のように書いている;
「そうだ難民しよう!」
JRの「そうだ京都、行こう。」をもじったと思われる、このシリア難民を中傷したイラストについての記事(10月10日24面「こちら特報部」)は、最近最も印象的なものだった。難民になれば、他人の金でいい暮らしができる、と椰輸(やゆ)した日本の漫画家はフェイスブック上のグループ「安倍総理を支える会」の中心メンバーだそうだ。実際に難民対策に尽力しているユニセフ職員は「現実の難民の状況を一度見てみろ」と怒っていた。
戦火に追われて故郷を捨て命がけで逃れなければならなかった人々の「痛み」を、この漫画家は全く分かっていないのだろう。しかも他人の写真をそのままなぞってイラストを描くとは、漫画家としての衿持(きょうじ)すら持ち合わせていないのか。
このイラストは「人種差別」として国際的に批判を浴びているというが国内メディアではほとんど報道されなかった。今、日本のジャーナリズムは世界が日本をどう見ているか、という視点に立つことを忘れている(あるいは逃げている)。安倍首相が国連で演説したことは伝えても、「聴衆が少なかった」(10月20日29面)ことには触れない。ジャーナリズムの役割を放棄していると言われても仕方ない。
10月19日の第1面は大変印象的な紙面だった。安保法成立から一カ月。安保関連法に反対する「シールズ」などの集会写真と並べて、米海軍の空母ロナルド・レーガンの甲板を得意げに歩く安倍首相の姿。ネットでは、戦闘機に乗り込んでご満悦の姿が見られた。「戦争ごっこ」の好きな子供、という図だが、現実に傷つき死んでいく兵士の痛みには関心がなさそうだ。
そのシールズの奥田愛基(あき)さんへの殺害予告(9月29日夕刊7面)、これこそ、安保法に賛成反対を超えて、卑劣な言論への脅迫としてあらゆるメディアが厳しく非難すべき出来事だ。しかし、ほとんどのメディアは沈黙したまま。それどころか「週刊新潮」は奥田さんの父親のことまで取り上げて、脅迫を煽(あお)っているに近い。「週刊新潮」に言いたい。攻撃しても自分は安全でいられる相手だけを攻撃するのはジャーナリズムの恥である。たまには自分を危うくする覚悟で記事を書いてみてはどうだ。
戦時下を生きていた人々から「今はあのころとそっくり」との声が次々に上がる中、私たちは戦時中の新聞、雑誌などのメディアがどんな報道をしていたか、見直すべきだ。もう一つ目をひいたのは、ネットを使った通信制高校「N高校」の記事(10月16日28面)。確かに不登校の子などの居場所となる可能性はあるが、問題は教育の内容だろう。
ネットを国家が若者を取り込む手段に使ってはならない。
(作家)
2015年10月25日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-『痛み』に寄り添う報道を」から引用
古くからわが国では「類は友を呼ぶ」と言われているのであるが、ネットに「そうだ難民しよう!」という心ない書き込みをして国際的な批難を浴びた漫画家が、実はフェイスブックに「安倍総理を支える会」を立ち上げた人物であるというのは、安倍晋三という政治家がどういう種類の日本人に支持されているのかを象徴的に示唆している。この種の日本人は、例えば「生活保護」と言えば「不正請求」を連想し、学校の教師や労働組合を意味も無く敵視し、在日韓国・朝鮮人を差別するヘイトスピーチを当然視する、グローバル化の時代について行けない人たちである。ところが、そういう傾向がジャーナリズムの世界にもはびこってきているというのは深刻な問題だ。安倍首相の国連演説がどのような状況の中で行われたか、正確に報道したのが東京新聞と「しんぶん赤旗」だけとは残念な話であるが、「しんぶん赤旗」は政党機関紙とは言え立派にジャーナリズムの役割を果たしていると言える。