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書評日記  パペッティア通信

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Apr 22, 2005
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カテゴリ:政治


一読後、笑ってしまった。
高橋哲哉は、明晰な論理と批判的思考に定評があるらしい。
靖国問題はどのような問題か。どのような筋道で考えていくべきか。
『論理的に明らかにする』のだそうです。
歴史学者ではなく、哲学者の端くれとして。

「靖国神社を汚すくらいなら、私自身を100万回殺してください!」

岩井益子陳述書の圧倒的な「感情」吐露から、この書ははじまる。
傑作の予感が漂う。

天皇と国家が神となる、国家教。その殉教者を神とする靖国神社。
哀悼を顕彰に、悲しみを歓喜にかえて、生と死の最終的な意味づけを与えた靖国。これを「感情の錬金術」として斥けて、「悲しいのに喜ばしいといわない」ことを提唱する、高橋哲哉。靖国神社そのものを否定していない、中国の「政治的譲歩」についての指摘。A級戦犯のみ問題とするのは、日中~太平洋戦争以前の植民地支配がぬけおちている、という指摘もなかなかです。

戦死者の遺族は、たまたま「天皇の意思」に合致して祀られているにすぎない。
遺族の意思は本質的に無視されている。靖国神社の非宗教法人化を達成できても、祭祀儀礼を維持する限り宗教団体である。神社非宗教論=「祭教分離」は、神社の宗教性のカモフラージュであるにすぎない。こうした考えは、国家祭祀に宗教がのみこまれた歴史に自覚がない。靖国は、伝統的な日本文化から断絶した特異な戦死者のみ祀るものなのだ …… たしかに、その論理的明晰性とやらは、随所にみられ、すばらしい。今後靖国を論じるなら誰もが出発しなければならない、スタンダードとなる見解を提供していることに、疑いはありません。

ところが、国立追悼施設の問題点をあつかった、第五章あたりからおかしくなってしまう。外国人の戦死者も追悼するはずのこの追悼施設。歴史認識をとわれる国家としての責任を曖昧にしたまま、ことをすすめるのは、加害者と被害者の同列化にしかならない。「不戦を誓った」以上、日本の死没者は「つねに」「正しい」武力行使になるからです。今後外国人は、「正しくない」ため、この追悼施設の対象には含まれない。これでは「第二の靖国」だ。国家は軍事力をもつ限り、追悼施設の顕彰施設化はさけられない。追悼したいなら、軍事力を廃棄せよ。「過去の責任」について国家責任を果たせ。問題は施設ではなく、施設を利用する政治である。なすべきことは、政治的現実そのもの「不断の非軍事化」のための努力である……もはや笑うしかない。最後の章で、すべてが台無しにされています。いったい、冒頭の予感はなんだったんだ。

まず、国立追悼施設批判が分からない。つくられないと今のまま。
ほくそ笑むのは、靖国神社というより、反対運動者だけ。
なにがしたいのか。

そもそも、「政治」がすべてなら、哲学を宣言して議論を展開した意味など、いったいどこにあったのでしょう。政治は「第二の靖国」をつくりかねず、軍事化がすすむ。その理解はまあいいでしょう。ただし、それならばその「責任」は、阻止しえていない高橋哲哉自身にもあることは、あまりにも明らかではないでしょうか。自己の「不断の非軍事化」を果たしえない責任には口をぬぐい、靖国神社にまつわる植民地支配の国家責任を断罪。すくなくとも、靖国に祭られた戦死者の加害「責任」を断罪するならば、せめて「不断の非軍事化」を実現させるための、政治的アジェンダを読者に提示することは、高橋の果たすべき最低限の「責任」ではないのか。問題は政治などと、誰もが知ってるあまりにも愚劣な結論でお茶をにごすならば。

さらに分からないのが、個人と集団の追悼が区別されること、そして追悼と顕彰というありかたが、区別されてしまうことです。
これらは区別できるのでしょうか。

そもそも、「顕彰」のみならず「追悼」という行為でさえ、内面をこえ社会に向けてあらわすなら、故人の「死」の意味を収奪することになりはしないか? 故人は、追悼されることを望んでいるの? 忘れられるのは嫌だろうけど、「神」になりたかった証拠はどこにある? なぜ、個人はよくて、国家はダメなの? 集団はどこまでならいいの? この辺は、著者にとっても、曖昧になってしまっています。

そもそも遺族は、本当に悲しいのでしょうか。われわれは、死は悲しまなければならないから、悲しんでいるふりをしているだけではないのか。人はいづれ「死ぬ」。そのことから目をそらすために、顕彰どころか追悼があるのではないか。「悲しいのに喜ばしいといわない」ことを説く高橋。ならば「死は当然のことなのに、悲しいとはいわない」ことまで説いてもよかったのではないか、などと、つらつら思う。

追悼の中に顕彰の発端をみること。
個人による追悼の中に、集団による顕彰の端緒をかぎつけること。
悲しみの共同体を批判するならば、そこまで踏み込まないでどうする。
その不徹底性ぶりには、いらだちだけが募ってしまいます。

追悼するものの人権は、語られます。靖国神社はそのために問題視されます。だからこそ、この書はバイブルたりえる。靖国神社も、国立追悼施設の推進者も、追悼する権利を声高に語ってくれます。しかし、追悼される側の、「死者」の人権は、だれも語ってくれません。死人に口なしとばかりに、遺族や靖国やその反対者にも利用され、死んでまで「護国の鬼」「侵略責任者」にされてしまう。

究極のサバルタン(語りえぬ者)、死人。
いつまでも、われわれは、死を死として受け入れることができない。
靖国をめぐる狂想曲は、そのことを教えてくれるのでしょう。

評価: ★★☆
価格: ¥756 (税込)

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Last updated  Nov 23, 2005 11:30:58 PM
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