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カテゴリ:政治
あ。むろん、これ皮肉ですよ。
5月25日の日記で、小泉靖国参拝問題への「内政干渉だ!!」とする、単細胞な反発に警鐘を鳴らしていたのだが、とうとう読売は「国立追悼施設」構想をとなえだした。 「国立追悼施設」は、左派を中心に主張されつづけた構想であった。 読売流にいえば、「読売新聞が朝日の軍門に降った」ことになるのでしょう。 やれやれ。 WEBからすぐ消す読売新聞なので、ここはあえて全文を引用させてもらう。 ■ 靖国参拝問題 国立追悼施設の建立を急げ(読売新聞) 小泉首相は、いったいこれまで、どのような歴史認識、歴史観に基づいて靖国神社に参拝していたのだろうか。 2日の衆院予算委員会で、小泉首相は民主党の岡田代表の質問に答弁し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪とされた、いわゆるA級戦犯について「戦争犯罪人であるという認識をしている」と述べた。 “犯罪人”として認識しているのであれば、「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社に、参拝すべきではない。 連合国軍総司令部(GHQ)が定めた「裁判所条例」に基づく東京裁判が、国際法上妥当なものであるかどうかについては、当時から内外に疑問の声があった。インド代表のパル判事による「全員無罪」の判決書はその典型である。 フランス代表のベルナール判事や、オランダ代表のレーリンク判事も、裁判所条例の合法性や、国際法上の適用に疑問を表明した。 また、サンフランシスコ講和条約発効後、いわゆるA級戦犯の刑死は国内法上は「公務死」の扱いにされた。 「A級戦犯」として禁固7年とされた重光葵氏は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑「A級戦犯」だった賀屋興宣氏は、池田内閣の法相を務めている。言うなれば“犯罪人”が法の番人になったわけである。 しかし、「A級戦犯」が閣僚として、“名誉回復”されたことについて、諸外国からとりたてて異議はなかった。 そうした歴史的経緯から、いわゆるA級戦犯は、「戦争責任者」ではあっても“犯罪人”ではない、とする議論も根強くある。 いわゆるA級戦犯が、靖国神社に合祀されたのは1978年のことである。翌79年に、そのことが明らかになるが、当時の大平首相、次の鈴木首相は、従来通り、靖国神社に参拝している。 大平首相は「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものについての審判は、歴史が致すであろうと私は考えております」として、いわゆるA級戦犯が“犯罪人”であるかどうかについての認識表明は留保した。 小泉首相は、岡田代表の質問に答える中で「首相の職務として参拝しているものではない。私の信条から発する参拝」と述べ、私人として参拝しているとの立場を表明した。 私的参拝であるなら、参拝の方法も考えるべきではないか。昇殿し、「内閣総理大臣」と記帳するのは、私的参拝としては問題がある。 公的、私的の区別については、三木首相が1975年に参拝した際に「私人」と言って以来、関心の対象となったが、その後の首相は、概(おおむ)ね公私の区別について、あいまいにしていた。 鈴木首相の時代には、公私の区別についての質問には答えないという方針を打ち出している。 しかし、小泉首相のようにはっきりと「首相の職務として参拝しているものではない」と言うなら、話は別である。 首相の靖国参拝を巡っては、以前から「問題解決」の方法としてのA級戦犯分祀論がある。だが、現在の靖国神社は、一宗教法人だ。政治が「分祀」せよと圧力をかけることは、それ自体、憲法の政教分離原則に反することになろう。 「分祀」するかどうか、あるいは「分祀」できるかできないかなど、祭祀の内容を解釈するのは、一宗教法人としての靖国神社の自由である。 ただ、国内にはさまざまな宗教・宗派があり、現実に、宗教上の理由からの靖国参拝反対論も多い。 靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない。 小泉内閣の誕生した2001年、福田官房長官の私的懇談会が、戦没者の追悼のあり方について検討を進め、翌年には国立、無宗教の追悼・平和祈念施設の建設を提言する報告書をまとめている。 どのような施設にするのか、どう追悼するのかといった点で、報告書は具体性に乏しい面もあるが、早急にその内容を詰め、新しい追悼施設の建立に着手すべきだろう。 米国のアーリントン墓地には、外国の元首などがしばしば献花を行う中心施設として無名戦士の墓碑がある。 国立追悼施設も、屋外施設でよい。東京都心の新宿御苑の一角に、記念碑のような追悼施設を建てればいいとの議論があるが、十分に検討に値する。 毎年、8月15日に政府が主催している全国戦没者追悼式は、従来通り東京・九段の日本武道館で行えばいい。 ただ、小泉首相が靖国参拝をやめたからといって、ただちに日中関係が改善されるわけではない。 もともと、A級戦犯合祀が明らかになった後も、大平、鈴木首相の靖国神社参拝に対し、中国からの表立った異議はなかった。 異議を唱えるようになったのは、1985年に中曽根首相が「公式参拝」の形をとってからである。中曽根首相はその翌年に、中国の抗議に屈して、靖国神社への参拝を中止した。いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が今日の混乱を招いた。 その後、天安門事件で共産党統治の求心力に危機感を抱いた中国は、「愛国・反日教育」の強化に転じ、年々歳々、膨大な数の反日世代を育て続けている。 4月に行われた反日デモのスローガンは、当初、日本の国連安保理常任理事国入りの問題であり、台湾問題だった。 今後の日中関係を考えるうえで、そうした中国の国内情勢も、注視していく必要がある。 5月25日付日記で読売や産経を批判したのは、「靖国参拝=内政」という論理がもちだされたからであった。 ここで知らない人のために、左派の論理をわかりやすく説明しておきたい。 靖国神社の問題はなにか。 それは、「個人の自由」と「外交」の2点に凝縮される。 まず、個人の信教の自由が侵害されている。本人の意思とは関係なく、勝手に戦死者を「神」として祭る宗教。キリスト教徒や、戦前迫害をうけた新仏教などは、靖国神社に批判のまなざしを向けるのはそのためだ。だから左派は、靖国神社を違憲とする。そして、アジアへの凄惨な加害のシンボル「A級戦犯」を、戦死者を神として「顕彰」する施設。これで参拝などしていては、先の大戦を世界に反省したことにはなるまい。ゆえに、顕彰ではない追悼のための、無宗教施設が必要なのであった。 だからこそ、左派は本質的に 小泉首相の靖国参拝を批判しきれない なぜなら、小泉首相の信教の自由は当然、いかなるときにおいても、認められなければならない権利だからだ。だから「私人参拝」なのである。ここに、靖国神社参拝問題が、えんえんと問題にされてきた遠因がある。左派は、決定的な一打を打ちだすことができない。 たとえば、朝日新聞の論調を思いおこしてほしい。つねにアジア外交への障害を問題にして批判的な論陣をはってきた。それは当然だ。「個人」から出発する左派の理屈からすれば、小泉首相を「個人の信仰の自由」の方向から批判することなどできないのである。そこを見落とす、知性のない人は、相手に「反日」というレッテルをはることになる。 だからこそ小泉首相は、「深い追悼」をあらわす、と信仰を強調してきた。 それゆえに朝日新聞の社説は、どんなに反対しようと、小泉首相のその思いが靖国を参拝することで果たされるのかという次元でしか、批判することができない。それは、左派からすれば、当然の節度といえよう。「行くな」と踏み込むわけにはいかないのだ。 ところが読売や産経は、「外交」しか読みとることができなかったようだ。対抗策に「内政干渉」などと言いはじめた。 これによって、小泉首相の靖国神社参拝は、「内政」へと次元が移った。小泉は、左派の「信仰の自由」をもちいることで、自己正当化できていた。それが、読売・産経の手によって「内政」になった。内政は外交と連続する以上、安倍晋三などの自民党閣僚や保守系新聞社は、靖国神社参拝が「政治」であることを追認したにひとしい。 読売は、今回の社説でも「政治」の論理から靖国参拝をとらえる。 「失政」と書いた部分を見てほしい。「政治」の論理ならば、靖国神社参拝の当否は、あくまで外交における功罪・損得で判断せざるをえない。だからこそ「失政」になる。 そして、「戦争犯罪人」と判断するならば行くな!という論理も、功罪・損得から判断されているに違いあるまい。小泉首相の参拝は、犯罪人の顕彰にしかならず、失敗という判断があるのだろう。 また読売は、いつも「法」「条約」解釈を延々たれながす傾向があることをおもえば、法と密接にかかわる「罪」に反応してしまった、とみることもできよう。 それらは簡潔に整理すればこうなる。 A 「14名=戦争犯罪人」なら靖国神社参拝不可 B 「14名≠戦争犯罪人」なら靖国神社参拝可 しかし、これは朝日新聞などの社説と比較しても、酷いとしかいいようがない。なぜならここには、残る2つの次元がないものとされているからだ。 C 「14名=戦争犯罪人」でも靖国神社参拝 D 「14名≠戦争犯罪人」でも靖国神社参拝不可 Cの次元は、小泉首相の立場である。A級戦犯以外の英霊の追悼をおこなおうとすることが、なぜ切り捨てられなければならないのか。そもそも理解に苦しむ。 また、Dの次元だってあるはずであろう。そもそも天皇が裁かれない「東京裁判」になんの意味があろう。天皇は、マッカーサーに命乞いをして、木戸日記提出に見られるような、「司法取引」をしたにすぎない。昭和天皇からGHQに差し出された、国体護持のための生け贄という意味で、「昭和殉難者」(by 靖国神社)とは事態の半面を正確に射ぬいている、という立場もあっていいはずだ。むろん、こういう人は、靖国には反対であろう。 こうしたさまざまな次元をもつであろう、靖国神社。1億人もいれば、人それぞれはちがう。それなのに、一刀両断にAとBの2つに整序してしまい、参拝に反対どころか、しないようにせまる。 これは、個人の自由という観点から出発して、靖国神社のイデオロギーを問題視してきた左派の論理とは、「国立追悼施設」の結論はおなじでも、次元をまったく異にしたものである。つねに、国家的見地から出発して、個人の権利を論じる姿勢をもつ、国家主義的な読売新聞。だからこそ、小泉首相靖国参拝に反対してきた朝日社説の微妙な言いまわしをとびこえて、「行くべきではない」とまでいえるのではないか。 そこに抜けおちているのは、「個人の権利」という観点である。 だからこそ、読売の社説は無惨である。 参拝擁護の社説を出しながら、朝日新聞とおなじ結論にしかならない。しかも、小泉首相の靖国参拝が外交上の失点であることくらい、本人が戦争犯罪人と考えようが考えまいが、なんの関係もなく、とっくに確定したことではないか。そんなことは、出し手ではなく、受けとり手の問題のはずだ。そして左派はみな、「外交」に不利益をおよぼすからとして問題にしていたのである。 さんざん、擁護した挙げ句、このザマ。 読売に踊らされた人には、同情を禁じえない。 人気ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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