2087402 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

書評日記  パペッティア通信

書評日記  パペッティア通信

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Calendar

Category

Favorite Blog

1977年のギリシアア… GKenさん

─ 灼熱 ─ HEAT1836さん
余多歩き くれどさん
tabaccosen breton005さん
ミョウの魅 stadanさん
ぶらぶらブラジル日記 Gaobrazilさん
沖縄でよんなよんな sinarsinarさん
りゅうちゃんミスト… りゅうちゃんミストラルさん
再出発日記 KUMA0504さん

Comments

山本22@ ブランド時計コピー 最高等級時計 世界の一流ブランド品N級の…
山本11@ 最高等級時計 店舗URL: <small> <a href="http://www.c…
よしはー@ Re:★ 小島毅 『近代日本の陽明学』 講談社選書メチエ (新刊)(09/26) 作者の独善性、非客観性をバッサリ切り捨…

Recent Posts

Archives

Jun , 2024
May , 2024
Apr , 2024
Mar , 2024
Feb , 2024
Jan , 2024
Dec , 2023
Nov , 2023
Oct , 2023
Sep , 2023

Freepage List

Keyword Search

▼キーワード検索

Jul 9, 2006
XML
aganben

▼  これはいい…。久しぶりに、素敵な入門書を読ませていただいた。

▼  著者が、その鮮烈な問題意識に即しながら、基本をきっちり押さえる入門書にもなっている。なおかつ、我々が現代社会を批判的に再考する際に視野を広げてくれる…。そんな芸当ができる書物は、かなり希少価値に近い。現代の「生」、そして「権力」とは何者なのか。近年提示される≪生権力≫に対する、使える本のひとつ、といえるでしょう。

▼  「生政治学」のミシェル・フーコー。「管理=コントロール社会」のジル・ドゥルーズ。「剥き出しの生」のジョルジョ・アガンベン…この3つを時間順に細やかにまとめていく。

▼  性と死。我々を根源的な規定するもの。言語的で「文化的」な我々の「生」は、その秩序形成において、そうした「自然的な生」、すなわち「生命」という主題とその「統治」という問題を抱えこまざるを得ない。文化的と自然的。この2つの領域の交差地点にこそ、政治の中心的テーマが析出され、精神医学的・遺伝的・医学的管理が、権力として機能する事態になる。

▼  ≪生政治≫。

▼  旧来「権力」像は、超越的な「上」から、「死」を手段として、「禁止」「抑圧」してくるものであった。フーコーは、そんな中心的権力を想定しない。うごめく大衆を空間の配分自身によって「自己監視」させる―――いわゆるパノプティコン―――「規律=訓育」型権力を提示する。「生」が権力の対象となることは、「抵抗のあり方」や、西洋近代的な「主体像」ならびにと主体を前提とした「社会像」に、全面的な変更をせまる。フーコーは言う。権力が抑圧・禁止を通して発動される様に描かれるのは、いったい何故なのか。それは、抵抗するポーズをとるのに「都合がいい」からにすぎない。革命とは、管理=コントロール型権力が発揮される格好の実例であって、転覆の思想とは、排除されたもののルサンチマンに支えられる、権力の補完物にすぎないのだ、と。≪生政治≫的権力は、言語的「主体」の形成以前における、身体・生命レベル、無意識レベルの「生けるものの働き」に焦点をあてている。もはや、正義のロマンティシズムは、荒唐無稽である以前に、権力の作用について「鈍感」といわざるをえない。

▼  知の認識論的枠組「エピステーメー」の断絶・転換・非連続をとなえるフーコーは、歴史を全体として捉え「意味」を付与する思考を徹底的に批判する。しかしそれは、たんなる歴史相対主義ではない。相対主義は『「真理の不在」という真理』を当てにしている。フーコーが歴史的相対化をおこなう対象は、「真理」という発想そのもの、それを産出する「人間」という装置そのものに限られている。「真理への意思」を体現する、超越論的―経験論的二重体である「人間」の形成と消滅を探る、フーコー。かれは、「排除」(=「人間」の外部)によって出現した「正常」な「人間」を問題にした前期から、後期では「非人間」であるものがどのように「人間」を生成させてきたのかにテーマを移行させ、「言語」が内包している「排除的」「分節化」の原理から、「生命」にそなわった秩序の「生産」、にそのスタンスをかえてゆく。晩年には、≪生政治学≫からさえ逸脱し、ネグリ・アガンベン・ドゥルーズに大きな影響をあたえているという。

▼  「狂気」が排除されるから、われわれは不自由なのではない。 「自由」な主体へと解放されることが孕む徹底的な管理、すわなち「公正な空間」に配備されるがゆえに、決定的に不自由になるのだ………。フーコーは、近代について、「告白」というテクノロジーを使い修道院を母体に誕生した「規律訓育型権力」が、軍隊・病院・学校に増殖・拡散する時代と捉えた。そこでは、空間・時間・段階が網の目のように「分割」されていて、そこへ「主体」をくみこんで「矯正」してゆく。規律訓練型権力は、法的な違反とはちがう「『非行性』の生産」を通して、社会全体に自己監視を及ぼし、「監禁的なるもの」を蔓延させ、犯罪者と権力が奇妙な癒着した、ポリス=警察国家を作り出してしまう。非行性は、個人に付随せず、個人を形成した環境全体を問題にする。そのため、犯罪者は永遠に犯罪予備軍に他ならない。 

▼  またフーコーは、抑圧され、隠蔽されているが故に、「真理であること」「人間的なもの」として確保されてきた、「性」にまつわるフロイト主義的言説の相対化を試みることで、規律訓練型権力に止まらない、≪生政治学≫的な主体産出に向けての考察に足を踏み入れる。

▼  性は近代において扇情的であって抑圧されていない。超越的権力―――「否定的(死・追放など)」「2項対立的」「禁忌(存在してはならないものには存在しないふりをする)」「検閲」「統一性」―――に対して、≪生権力≫は隅々まで拡散して「下からくる」「内在によって機能する」「権力の中心がない」ものである。誰も権力の外には出ることができない。フーコーは云う。異常者・子供・女性・人口の4つの軸を通してテーマ化された「性」は、精神分析という知、家族制度、ブルジョアジー階級を介して、「性的欲望」の装置として機能している、と。 本来家族は、「法」と「契約」とを軸に形成される、「婚姻の装置」によって成立する社会システムであった。この空間に、「夫-妻-子供」の所謂「フロイトの三角形」が導入され、性と生殖にまつわる「生」のコントロールがおこなわれるとともに、性的倒錯の場所(近親相姦の忌避という「法」)が割り当てられ、「性的欲望」を喚起しつつコントロールが行われるようになる。フロイト主義以降、家族という空間は、「法的」なものに≪生権力≫が入り込んでしまい、≪生権力≫の舞台となる。また「自己管理」「自己確認」としての≪生権力≫は、ブルジョアジー階級の「自己確認」手段として精神分析という知を受け入れる一方、貴族階級が持つ「血」概念を戦略点として、生物学的・優生学的・医学的・遺伝的管理を展開するという。それは、「種」をターゲットにするがゆえに、「人種概念」「人種差別」「民族浄化」を生み落としてゆく。「フロイト主義」とは、≪生権力≫の衣をまといながら古い「法」的制度を結びつけることで、「抑圧」からの「解放」の倫理ビジョンを夢想・蔓延させる、反動的体制の極限に他ならない。このフロイト主義批判は、たいへん面白い。


(またまた「まとめ」るのに長くなってしまったので、<2>に続きます。暖かい応援をおねがいします)


評価 ★★★★
価格: ¥777 (税込)

 ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Aug 25, 2006 02:25:32 AM
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.