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米内内閣が発足してすぐの昭和15年(1940年)2月2日、帝国議会で問題が起こりました。 民政党の衆議院議員・斉藤隆夫が日中戦争を早く終わらせるべしとの演説を行なったのです。世に言う斎藤隆夫の反戦演説です。 斎藤隆夫は、日中戦争がおこる前の昭和11年(1936年)にも、軍部批判の演説をしたことがあります。これは粛軍演説と言われました。 斎藤隆夫(出典 Wikipedia) 斎藤隆夫の反戦演説は1時間半にも及ぶ長いものですが、その要点は次のようでした。 「2年半も続く日中戦争で、国民は大きな犠牲を負わされている。領土や賠償を要求せず、内モンゴル以外の中国占領地から撤兵せよ」 「ひとたび戦争が起これば、問題はもはや正邪曲直是非善悪の争いではなく、徹頭徹尾、力の争い、強弱の争いであって、八紘一宇(はっこういちう)とか東洋永遠の平和だとか、聖戦(せいせん)とか言ってみても、それはことごとく空虚な偽善である」(この部分は、林茂著:日本の歴史25巻より引用) この演説を聴いた軍部は、聖戦を冒涜するものだと猛烈に反発し、軍部におもねるものの多かった議員らによって、斎藤隆夫は衆議院議員を除名されてしまいました。 斎藤隆夫は、つぎの漢詩を残して議会を去ったそうです。(読み下し文) 吾が言は即ち是れ万人の声 毀誉褒貶は世評に委す 請う百年青史の上を看る事を 正邪曲直自ずから分明 斎藤隆夫の反戦演説は、一般にはほとんど報道されませんでした。演説内容も、かなりの部分が議事録から削除されたとのことです。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 斎藤隆夫は、昭和17年(1942年)4月の総選挙で、地元の兵庫県出石(いずし)を含む兵庫5区で最高点当選を果たし、再び衆議院議員に返り咲きます。しかしこの時は、すでに対米英戦争のさなかでした。 敗戦後、斎藤隆夫は、昭和21年(1946年)に第一次吉田茂内閣の国務大臣として入閣し、行政調査部総裁となります。次の片山哲内閣でも、行政調査部総裁を続けました。衆議院議員当選13回。昭和24年死去、享年80歳でした。 今、戦争反対を叫ぶ声は盛んです。しかし、いざとなったとき、斎藤隆夫のように、命をかけて叫びとおす人はどれだけいるでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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