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2011年05月04日
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カテゴリ:カテゴリ未分類

このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、敗戦後しばらく経った昭和24年(1949年)の初め、私の大学受験のころの話です。

このブログは、私の想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わりでもあります。

歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。  目次 から、どのページでも見られます。

  ホームページアドレスは
  http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55


     題 名 は   「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド


なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ  の方に書いていますので、そちらでご覧ください。

  このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断わりします。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

昭和23年(1948年)10月から翌年2月にかけて、私が大学受験勉強に没頭している間に、日本の政局が大きく変わりました。

当時の副首相・西尾末広が逮捕されて、芦田内閣が総辞職。民主自由党を結成した 吉田茂第二次吉田内閣を組織しましたが、少数与党のため国会解散。

昭和24年(1949年)1月第24回衆議院議員総選挙が行なわれました。


                吉田茂
                    吉田 茂(出典 Wikipedia)

このときの選挙から、私も20歳になって選挙権が与えられ、受験勉強の合間に投票しました。

選挙の結果は、民主自由党264・民主党69・社会党48・共産党35。民主自由党と共産党が大躍進。前回の選挙であれほどの票を取った社会党は惨敗、民主党も大きく転落しました。


         第24回衆議院総選挙結果図         
                  第24回衆議院議員総選挙結果

当初は、民主自由党がこれほどの大勝をするとは思われていませんでした。しかし、汚職や内部抗争が続き、インフレも収められず、 GHQ(連合国軍総司令部)の言いなりになっている社会党民主党の連立政権に、国民は愛想を尽かしたのです。

社会党に入っていた票の多くが共産党に流れ、社会党は、党首で前首相の片山哲が落選する始末。そして、大きく議席を減らした民主党は、一部が民主自由党に合流するなど、中間政党はすっかり力を失いました。


            吉田首相施政方針演説
               吉田首相の施政方針演説(出典 Wikipedia)

選挙勝利の結果を受けて、第三次吉田内閣 が発足。以後、昭和20年代の終わりまで、およそ6年間、吉田内閣 が政権を担当して、インフレを収束させ、朝鮮戦争を経験し、講和会議独立復帰などを実現して、日本復興と再発展への基礎固めを行なってゆきます。

吉田茂 は、時として傲慢(ごうまん)な発言や態度を批判されましたが、イギリス大使など、長い外交官時代のうちに培った、イギリス・アメリカの政界上層部の人物とのつながりを持っていました。

それで、 GHQ との交渉でも、納得いかないときは、司令官・マッカーサーと直接談判して承諾を得るなどして、実力を示しました。また、のちに総理大臣となる池田勇人(いけだはやと)や佐藤栄作(さとうえいさく)などの人物を育て、世間では吉田学校と呼ばれました。

   






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最終更新日  2013年01月24日 17時14分06秒
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