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昭和24年(1949年)3月、私は入学試験勉強最終の追い込みに入っていました。当時、エアコンなどはもちろん無く、暖房なしのまま、着られるものをいっぱい着込んで、机に向かっていました。 その前から、父は、私に 「そんなに勉強をしても、とても無理じゃ、店をやれ」 と言っていました。 「そんなこと言うても、残った家など、家督相続でみんな兄のものになってるやないか」 というと、 「いや、お前にやるつもりの店は、いずれ、お前に渡すように兄に言うてある」 との返事。 しかし、こちらは、目先に迫った入学試験で頭がいっぱい。 「そんな話は、入試の決着がついてからにしてよ」と言って、勉強部屋にこもりました。 いよいよ大学入試の日が来ました。入試には時計が必需品ですが、当時は高価で貴重品。私は前日に、近くで薬局を経営している義兄に頼んで、腕時計を貸してもらいました。 当時の五条大橋(木造、内蔵助氏の古写真アーカイブより許可を受けて転載) 時間の余裕を見て、家を出ました。五条大橋を渡り、市電の停留所に来てふと気が付くと、手にはめたはずの腕時計がありません。 「しまった、忘れてきた ! 」 と、急いで家へとって返しましたが、家にもありません。 「落としたか !」 と、最初に歩いたところを、下を見ながら急ぎました。 「あった ! 」 五条大橋を渡り終わる一歩手前、南西の端の擬宝珠(ぎぼし)の柱の下に、腕時計は落ちていました。しかし、まあ、7~8分の間とはいえ、"よく人に拾われなかったものだ" と思いました。と同時に、 “僕には運が付いてる ! ” と、一気に心が晴れました。 入試は2日間、大学構内の教室で受けました。志望学科の競争率は5.5倍。問題用紙の配布前にあたりを見ると、みな秀才そうな顔ばかり。このうちの5人に1人しか合格しないのか、と思うと 「どうなとなれ !」 という気がしました。 合格者発表の日、不安が8割、期待が2割でした。学部の玄関に貼り出された合格者名簿に眼をやると、 「あった ! 」 私の受験番号と名前が、確かに書いてありました。あの答案でよくもまあ合格できたもんだ、と思いながら、幸運にほっとしました。 専門学校で同級のS君も、1年下のK君も、共に合格。農学科定員28名のうち、京都府立農林専門学校生が5人を占めました。 そのころは公衆電話がなく、すぐに専門学校へ行き、K教授ら先生方に結果を報告。K教授は、自分の使っていた英語の辞書をお祝いにくれました。それから帰宅して、父や姉や兄に報告しました。 やっと、精神的重圧から解放され、勉強に使った各科目の参考書にも、一冊一冊に頭を下げました。 入試の勉強の指導をしてくれた専門学校同級のI君は、帰省中だったので、入学後に学内で会って礼を言いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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