1984年5月某日
コンポジションの授業は知らない先生が来た(1)。現代国語、国語表現の先生はH先生です(2)。今日はNHとSSとNと図書館に行った(3)。家にいると虚しさをずっと感じるんだなんてNHは言っていたが、私はずっとではなく、フト感じるんだ。始業式の日に走り出してきた子(4)。ぼんやり頭に浮かんでくる。何も考えていないのに、底のほうに溜まっていたものが、ふつふつ湧き出てきた感覚。何も感じてない筈なのに、一人あほみたいやと思っている。図書館の帰りにTSに偶然会った。それに横にいたHMに墨汁をあげた。きっと喜んだことだろう。
1994年5月某日
(1)コンポジションの授業はとても簡単で馬鹿馬鹿しくて、いつも違う勉強をしていた。
(2)3年最後の授業で「見る」ということに好きに書きなさい。書いたら合格ですというテストを出された。
(3)NHは今も付き合いのある数少ない友達。SSは大阪教育大学に行ったきり会っていない。Nはとても真面目すぎて,機転が効かず、見ていて不憫な奴だった。
(4)その子に「あなたはどんな人と結婚するのでしょうね」とえらく興味を持たれた。
(5)TSは水族館館長になるのが夢であった。
フォークランド紛争にえらく憤慨していた。
(6)HMは、同じ大学ででもあった。学生時代コンパで知り合った子とそのまま結婚した。
2004年5月某日、と思ったら、2005年やないか。
(1)高校の授業は確か50分だったような気がする。短い間も集中できないものなんだなあ。考えれば、中学校と高校2年までは一度も学校休むことがなかった。3年生になってからはよくサボった。
(2)H先生は、ある授業で、インドのカジュラーホにある
エロチックなミトゥナ像の写真集を持ってきて、「現代の性のタブーの厳しいインドでは考えられないぐらい昔は大らかだったんです」と説明した。翌年、私は、インドのカジュラーホからH先生に影響を受けて(嘘)ここに来ましたよ、とH先生宛に高校に絵葉書を送った。
(3)NHは20年後の今も付き合いのある数少ない友達ではあるが、昔はお姉さん志向だったのに、今はロリコン志向だ。こんな奴がマルサをしているのだから日本もヤバイ。SSには一度だけ茶を飲んだ。小学校の先生になった。先生ときけば、いつも誰にでも教育論をお聞きするのだが、誰もがその話題を避ける。多分、私の質問が下らないからであろう。Nとは一度も会っていない。勉強時間の一番長い奴であったが、彼には暗記タイプの勉強は向いてなかったのであろう。それにしても、考えれば、一面、暗記中心の詰め込み教育は必要だと思う。それを消化しなければ仕方ないが、取り合えず、言葉だけでも覚えていかなければ。想像力は知識と知識との組み合わせであり、経験を具現化することであり、知恵を出すためには知識が不可欠であるからであると思う。
(4)その子には「結婚は向いてませんでした」と答えたいものだ。しかし「やっぱりね」といわれそうなので、「またすると思います」と答えるであろう。
(5)TSは水産学部に進学したが、水族館館長にれず、魚屋さんになったが、24時間体制で、寝るときも携帯電話を枕元に置き、部下から魚が入ると、買うかどうかの電話がショッチュウかかってきていて、ついに疲れてしまい、仕事を辞めてしまった。その後、フォークランド紛争でイギリス軍で戦死したのは、
ネパールのグルカ傭兵が多かったと知り、胸が痛くなった。
(6) HMは、同じ大学ででもあったが、考えれば、彼の影響で人生が変わったかも知れない。私は国公立希望の理系だったのだが、滑り止めため私学のその大学の理学部の願書を購入すると、全学部の願書が入っており、郵送前日に、フト、文系もイッコぐらいおまけで受けてみるのも余興だなあと思い、彼に電話してみたのである。「この学校の看板学部教えてくれ。遊びで受けてみるわ」と。結果的に、遊びで受けたところだけ、合格し、あとの理系大学は全滅したのであった。