20歳。私は5日間滞在した新潟を出た。鈍行で上越線に乗り、東京に向かった。
途中、高校生がまたもや列車の連結部分を締め切って煙草を吸っていた。新潟では流行っているのかも知れない。
上越線での想い出はないのだが、途中、列車内からスキー場が見え、人々が滑っているのが見えた。
ここからは以前にも書いたことがあると思うのだが、22時頃、私は、東京の経堂駅に着いた。専修大学に通う友達に会うためだ。彼の下宿に行ったが彼は不在。何故だ。私は彼が帰ってくるのを玄関で待っていたが、非情にも彼は私との歴史的会見アポをすっぽかして、遊びほうけているようだ。
私は、コインロッカーの仕組みが分からなかったので、23時50分から駅前のロッカーで10分間をぼさっと待ち、零時を越えるのを確認して、荷物を預けた。
そして、居酒屋つぼ八に入り、ゆっくり飯を食いながら、本を読んだ。
そして閉店となり、経堂をウロウロして、また彼の下宿の前の公園のブランコに座った。何か寂しさとブランコが似合った。
日記に書いておこうとカバンを開けると、日記がなくなっていた。5日間克明にに書いた取材日記が消えていた。決してスパイ活動をしていた訳でもないのに。経堂の歩いてきた道を逆戻りし、道中を探したが無かった。落胆し、またブランコに座った。揺れるブランコと寂しさが良く似合った。
そして、次にカメラをチェックした。フィルムの交換をしようとカバーを開けると、フィルムが空回りし、1枚も撮れていないことが判明し、5日間の新潟が真っ白になった。ブランコがキーキーなる音と靴が砂を擦る音と寂しさと虚しさが良く似合った。
子供時代よりブランコに長く座っていた。おそらく人生で一番長いブランコの日であろう。
電車が動き出し、私は電車に乗り、海老江に行った。海老江の駅前のベンチで横になった。
その後、横浜の中華街、山下公園に行った。(その数年後またランドマークタワーに行くまで数年間山下公園には行ったことがなかった)
また夜になり、横浜の親戚の家に行き、従弟と親父と酒を飲み、何故か共産主義の話をして、酔っ払って、翌日寝坊して、急いで成田に向かったのであった。
プラハ地下鉄、共産主義的・・・